円通庵《えんつうあん》とか云った。丁度その尼寺の筋向うに、ちょっと通り抜けられそうもない路地があったが、その中へ私たちの小案内者が、ずんずん得意そうに入って行くので、私たちもさも面白いことでもするようにその汚《きたな》い路地の中へ入って行った。最初のうちは何んだかゴミゴミした汚らしい小家の台所の前などを右へ折れたり左へ折れたりしていたが、そのうち半ばこわれかかった一つの柴折戸《しおりど》のあるのを先頭のものがそっと押して中へはいって行った。と、いままで何か言いあっていたものたちが、そのとき急にばったりと話しやめた。不意に意外な場所に出たものと見える。やっと自分の番になって、その中へはいって見ると、私たちの目の前には、いまにも崩《くず》れそうな小さな溝《みぞ》を隔てて、目のあらい竹垣の向うに、まだ見たこともないような怪奇な庭が横《よこた》わっていた。そこには無気味に感じられる恰好《かっこう》の巌石がそば立ち、緑青《ろくしょう》いろをした古い池があり、その池の端には松の木ばかりが何本も煙のように這《は》いまわっていた。そしてそれが常泉寺の奥の院の庭であるのを知った時、私たちは一層驚かずにはいられなかった。……それから私たちは急にひっそりとなって、その崩れ落ちそうな溝づたいに一列にならんで歩き出したが、その道のもう一方の側はどうなっていたのか今はっきり思い出せない。そこまで来てしまうと、どっちを向いてももう殆《ほと》んどさっきの人家らしいものが目に入らなかったようだが、ことによると私たちのまわりには私たちよりも丈高《たけたか》く雑草が生《お》い茂っていたのか知れぬ。そう云えばそこいらが一面の薄《すすき》だったような気もする。
私たちは何時《いつ》の間にかとんでもない場所へ来てしまったような不安な気持になって、お互に無言のまま、おっかなびっくりそんな場所を歩き続けて行ったが、そのうち再び驚かされたのは、そんな寺の裏なんぞの、恐らく四方から墓ばかりに取り囲まれているであろうようなところに、一軒ぽつんと小さな家が見え始めたことだった。さっきの雑草もその小家のあたりだけは綺麗に取除かれ、その代りそこら一面に、その小家を殆んど埋めるくらいにして、黄や白だのの見知らぬ花が美しく咲きみだれていた。その見なれない小家の前を私たちがこっそり通り抜けようとしたとき、その家のなかの様子は少し
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