もさっきそんな気がしたわ。……やっぱり血筋なのね。……」そう言いかけながら、お照は急に気がついたかのように、「ああ、こうしちゃいられないわ。……また、来ますわ。……じゃ、左様なら。」と言って、性急そうに立ち上ると、すこし蓮葉《はすは》に下駄を突っかけながら、がらりと格子を開けて出ていった。――
「あら、何か忘れものをしていったよ。……何て、まあ、そそっかしやさんなんだろう。……」おばさんはそう口のうちで呟《つぶや》きながら、長火鉢の傍に置き忘れられてある黄いろい表紙の本を取り上げた。字のよく読めないおばさんには、モオパスサンという片仮名だけはわかったが、それがどんな題の、どんなことを書いた本だかは、すこしもわからないのである。……
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秋
私は震災後、しばらく父と二人きりで、東京から一里ばかり離れたY村で暮らしていた。その小さな、汚《きたな》い、湿気の多い村は、A川に沿っていた。その川向うは、すぐその沿岸まで、場末のさわがしい工場地帯が延びてきていた。私の父方の親類の家がその村にあったので、私は幼い頃、ときどき父に連れられて写真機などを肩にしては、この辺へも遊びに来たものだった。が、それっきり、その地震の時まで、私は殆《ほと》んどこの村を訪れたことがなかった。――そんなに足場の悪い、貧弱な村も、その地震の直後は、避難民たちで一ぱいになり、そのひっそりした隅々《すみずみ》まで引っくり返されたように見えたが、二週間たち、三週間たちしているうちに、それらの人々も、或るものは焼跡へ帰って行ったり、又、他のものは田舎《いなか》の、それぞれに縁故のある村へ立ち退《の》いて行ったりして、この村も、丁度コスモスの咲き出した頃には、漸《ようや》くその本来のもの静かな性質を取り戻しつつあった。
私は父とその村に小さな家を借りて、しばらく落着いていることにしたのだが、その頃私はと言えば、何んとも言いようのない、可笑《おか》しな矛盾に苦しめられていた。私は私の母を、その地震によって失ったばかりであった。それにもかかわらず、私には自分がその事からさほど大きな打撃を受けているとはどうしても信じられなかったのだ。私自身にもそれが意外な位であった。そうしてそれは、その村で私の出遇《であ》った昔の知人どもが、「まあ、お可哀そうに……」と言いたげな顔つきで私を見ながら、
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