て、それから弘に向って「弘ちゃん、ちょっと御供所《おみきしょ》までいって、お父さんを呼んできておくれでないか。お花の先生がちょっとお呼びですからって。……いったらいったきりで、ちょっとやそっとでは帰って来ないんだからね。……ほんとに困っちまう。」
それを聞くと、弘はいそいで立ち上って、まるで逃げ出しでもするようにして、下駄を突っかけたまま、おもてへ飛び出していった。
それから、弘の母は二言三言お照と立ち話をしていたが、いそがしそうに再び自分の家へ帰って行ってしまった。あとには、お照が一人だけ長火鉢の傍《そば》に取り残された。
お照は、それから暫《しばら》くぼんやりと、いましがた弘の勉強していた茶ぶ台の方を眺《なが》めていた。茶ぶ台の上には、まだ何やらわけのわからぬ図形や記号の一ぱい描きちらされている帳面が、開けたまんまになっている。――そんなお照の心にはいつか、よくその同じ場所で、ひとりで落語の稽古《けいこ》をしていた死んだ清ちゃんの後姿が蘇ってきている。清ちゃんもずいぶん不幸な人だったらしいけれど、――と、お照はそれからしばらく、自分にも、弘にも叔父にあたる、かつ若という落語家だった、その清ちゃんの不幸な身の上を考えるともなく考えている。……若い時から落語家の円三さんの弟子になっていたが、中途でぐれ出して、旅廻りの浪花節《なにわぶし》語りにまで身を堕《おと》していたが、そのうち再び落語家の小かつさんに拾われ、それからは心をいれかえて一しょう懸命に高座を勤めていたので、小かつさんにも可愛がられ、真打《しんうち》になったら自分の名を襲《つ》がせてやろうとまで言われるようになったのに、若いとき身を持ち崩した祟《たた》りで、悪い病気がとうとう脳にきて、その頃|同棲《どうせい》していた、下座《げざ》の三味線|弾《ひ》きのお玉さんの根岸の家で死んだのは、つい一咋年のことだったが、なんだか随分昔のような気もする。その間に、あんまり私も苦労をしすぎたせいかも知れない。そう云や、清ちゃんと私とは同じような性分なのかも知れないな。……と、そんなことやら、あそこで壁を向いてひとり稽古に夢中になっている清ちゃんの後姿を見ながら聞いていると、可笑《おか》しな落語もちっとも可笑しくなかったことやらを、思い浮べて、お照は何気なしにふと淋《さび》しい微笑を誘われていた。……
弘はあれっき
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