避難所でもあるかのように、こんな結婚の中に逃げ込んだのだろう?」彼女は結婚の式を挙げた当時の事を思い出した。彼女は式場の入口に新夫の圭介と並んで立ちながら、自分達のところへ祝いを述べに来る若い男達に会釈していた。この男達とだって自分は結婚できたのだと思いながら、そしてその故に反って、自分と並んで立っている、自分より背の低い位の夫に、或気安さのようなものを感じていた。「ああ、あの日に私の感じていられたあんな心の安らかさは何処へ行ってしまったのだろう?」
 或日、牧柵を潜《くぐ》り抜けて、かなり遠くまで芝草の上を歩いて行った菜穂子は、牧場の真ん中ほどに、ぽつんと一本、大きな樹が立っているのを認めた。何かその樹の立ち姿のもっている悲劇的な感じが彼女の心を捉えた。丁度牛や馬の群れがずっと野の果ての方で草を食《は》んでいたので、彼女はそちらへ気を配りながら、思い切ってそれに近づけるだけ近づいて行って見た。だんだん近づいて見ると、それは何んと云う木だか知らなかったけれど、幹が二つに分かれて、一方の幹には青い葉が簇《むら》がり出ているのに、他方の幹だけはいかにも苦しみ悶《もだ》えているような枝ぶりを
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