の綿屋《わたや》という屋号の家の早苗と云う娘であるのに気づいた。娘の方では先に明に気づいていたらしかった。
 明はそれを知ると、こんな薄暗い小屋の中にその娘と二人きりで黙り合ってなんぞいる方が余っ程気づまりになったので、まだ少し上ずった声で、
「此の小屋は一体何んですか?」と問うて見た。
 娘はしかし何んだかもじもじしているばかりで、なかなか返事をせずにいた。
「普通の納屋でもなさそうだけれど……。」明はもうすっかり目が馴れて来ているので小屋の中を一とあたり見廻した。
 そのとき娘が漸っとかすかな返事をした。
「氷室《ひむろ》です。」
 まだ藁屋根の隙間からはぽたりぽたりと雨垂れが打ち続けていたが、さすがの雨もどうやら漸く上りかけたらしかった。いくぶん外が明るくなって来た。
 明は急に気軽そうに云った。「氷室と云うのはこれですか。……」
 昔、此の地方に鉄道が敷設された当時、村の一部の人達は冬毎に天然氷を採取し、それを貯《たくわ》えて置いて夏になると各地へ輸送していたが、東京の方に大きな製氷会社が出来るようになると次第に誰も手を出す者がなくなり、多くの氷室がその儘諸方に立腐れになった。
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