ん?」
そう云って私はあの方と向い合った椅子からそっと離れた。そうしてお隣りへお前を迎えにやって置いて、一足先きに、村のなかを御案内していることにした。
村は丁度養蚕の始まっている最中だった。家並は皆で三十軒足らずで、その上大抵の家はいまにも崩壊しそうで、中にはもう半ば傾き出しているのさえあった。そんな廃屋に近いものを取り囲みながら、ただ豆畑や唐黍畑《とうきびばたけ》だけは猛烈に繁茂していた。それは私たちの気もちに妙にこたえて来るような眺めだった。途中で、桑の葉を重たそうに背負ってくる、汚れた顔をした若い娘たちと幾人もすれちがいながら、私たちはとうとう村はずれの岐《わか》れ道《みち》まで来た。北よりには浅間山がまだ一面に雨雲をかぶりながら、その赤らんだ肌をところどころ覗かせていた。しかし南の方はもうすっかり晴れ渡り、いつもよりちかぢかと見える真向うの小山の上に捲き雲が一かたまり残っているきりだった。私たちが其処にぼんやりと立ったまま、気持よさそうにつめたい風に吹かれていると、丁度その瞬間、その真向うの小山のてっぺんから少し手前の松林にかけて、あたかもそれを待ち設けでもしていたかのよ
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