くろがそんな事を云う筈はないが……。」
 彼はいつまでも妙な気持になりながら、その友人を不機嫌そうに送り出した。

 その晩、圭介は母と二人きりの口数の少ない食卓に向っているとき、最初何気なさそうに口をきいた。
「菜穂子が入院している事を長与が知っていましたよ。」
 母は何か空惚《そらとぼ》けたような様子をした。「そうかい。そんな事があの人達にどうして知れたんだろうね。」
 圭介はそう云う母から不快そうに顔を外らせながら、不意といま自分の傍にいないものが急に気になり出したように、そちらへ顔を向けた。――こういう晩飯のときなど、菜穂子はいつも話の圏外に置きざりにされがちだった。圭介達はしかし彼女には殆ど無頓著《むとんじゃく》のように、昔の知人だの瑣末《さまつ》な日々の経済だのの話に時間を潰《つぶ》していた。そう云うときの菜穂子の何かをじっと怺《こら》えているような、神経の立った俯向《うつむ》き顔を、いま圭介は其処にありありと見出したのだった。そんな事は彼には殆どそれがはじめてだと云ってよかった。……
 母は自分の息子の娵《よめ》が胸などを患ってサナトリウムにはいっている事を表向き憚《はば
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