黒川圭介は、他人のために苦しむという、多くの者が人生の当初において経験するところのものを、人生半ばにして漸《ようや》く身に覚えたのだった。……
九月初めの或日、圭介は丸の内の勤め先に商談のために長与と云う遠縁にあたる者の訪問を受けた。種々の商談の末、二人の会話が次第に個人的な話柄の上に落ちて行った時だった。
「君の細君は何処かのサナトリウムにはいっているんだって? その後どうなんだい?」長与は人にものを訊《き》くときの癖で妙に目を瞬《またた》きながら訊いた。
「何、大した事はなさそうだよ。」圭介はそれを軽く受流しながら、それから話を外《そ》らせようとした。菜穂子が胸を患って入院している事は、母がそれを厭《いや》がって誰にも話さないようにしているのに、どうして此の男が知っているのだろうかと訝《いぶか》しかった。
「何でも一番悪い患者達の特別な病棟へはいっているんだそうじゃないか。」
「そんな事はない。それは何かの間違えだ。」
「そうか。そんなら好いが……。そんな事を此の間うちのおふくろが君んちのおふくろから聞いて来たって云ってたぜ。」
圭介はいつになく顔色を変えた。「うちのおふ
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