彼の目先にちらついている、菜穂子がその絵姿の中心となった、不思議に重厚な感じのする生と死との絨毯《じゅうたん》の前にあっては、いかに薄手《うすで》なものであるかを考えたりしていた。彼のいま陥《お》ち込《こ》んでいる異様な心的興奮が何かそんな考えを今までの彼の安逸さを根こそぎにする程にまで強力なものにさせたのだった。――森林の多い国境辺を汽車が嵐を衝《つ》いて疾走している間、圭介はそう云う考えに浸り切りになって殆ど目もつぶった儘にしていた。ときおり外の嵐に気がつくようにはっとなって目をひらいたが、しかし心《しん》が疲れているので、おのずから目がふさがり、すぐまた夢うつつの境に入って行くのだった。そこでは又、現在の感覚と、現在思い出しつつある感覚とが絡《から》まり合《あ》って、自分が二重に感ぜられていた。いま一心に窓外を見ようとしながら何も見えないので空《くう》を見つめているだけの自分自身の眼つきが、きのう山へ著《つ》くなり或半開の扉のかげからふと目を合わせてしまった瀕死《ひんし》の患者の無気味な眼つきに感ぜられたり、或はいつも自分がそれから顔をそらせずにはいられない菜穂子の空《うつ》けたような眼ざしに似て行くような気がしたり、或はその三つの眼ざしが変に交錯し合ったりした。……
急に窓のそとが明るくなり出した事が、そう云う彼をも幾分ほっとさせた。曇った硝子を指で拭いて外を見ると、汽車が漸っと国境辺の山地を通り過ぎて、大きな盆地の真ん中へ出て来たためらしかった。風雨はいまだに弱まらないでいた。圭介の空け切った眼には、そこら一帯の葡萄畑《ぶどうばたけ》の間に五六人ずつ蓑《みの》をつけた人達が立って何やら喚き合っているような光景がいかにも異様に映った。そういう葡萄畑の人達の只ならぬ姿が何人も何人も見かけられるようになった頃には、車内もおのずから騒然とし出していた。ゆうべの豪雨が此の地方では多量の雹《ひょう》を伴っていたため、漸く熟れ出した葡萄の畑という畑がこっぴどくやられ、農夫達は今のところは手を拱《こま》ねいて嵐のやむのをただ見守っているのだと云う事が、周囲の人々の話から圭介にも自然分かって来た。
駅に著く毎に、人々の騒ぎが一層物々しくなり、雨の中をびしょ濡れになった駅員が何か罵《ののし》りながら走り去るような姿も窓外に見られた。
汽車がそんな惨状を示した葡萄畑の多い平地を過ぎた後、再び山地にはいり出した頃は、遂に雲が切れ目を見せ、ときどきそこから日の光が洩れて窓硝子をまぶしく光らせた。圭介は漸く覚醒《かくせい》した人になり始めた。同時に彼には、今までの彼自身が急に無気味に思え出した。もうあの瀕死の鳥のような病人の異様な眼つきも、それを知《し》らず識《し》らずに真似していたような自分自身のいましがたの眼つきもけろりと忘れ去り、唯、菜穂子の痛々しい眼ざしだけが彼の前に依然として鮮かに残っているきりだった。……
汽車が雨あがりの新宿駅に著いた頃には、構内いっぱい西日が赤あかと漲《みなぎ》っていた。圭介は下車した途端に、構内の空気の蒸し蒸ししているのに驚いた。ふいと山の療養所の肌をしめつけるような冷たさが快くよみ返って来た。彼はプラットフォームの人込みを抜けながら、何やらその前に人だかりがしているのを見ると、何んの気なしに足を駐《と》めて掲示板を覗いた。それは今彼の乗って来た中央線の列車が一部不通になった知らせだった。それで見ると、彼の乗り合わせていた列車が通過した跡で、山峡の或鉄橋が崩壊し、次ぎの列車から嵐の中に立往生になったらしかった。
圭介はそれを知ると、何んだ、そんな事だったのかと云った顔つきで、再びプラットフォームの人込みの中を一種異様な感情を味いながら抜けて行った。こんなに沢山の人達の中で、自分だけが山から自分と一しょに附いて来た何か異常なもので心を充たされているのだと云った考えから、真直を向いて歩きながら何か一人で悲痛な気持ちにさえなっていた。しかし、彼はいま自分の心を充たしているものが、実は死の一歩手前の存在としての生の不安であるというような深い事情には思い到らなかった。
その日は、黒川圭介はどうしてもその儘大森の家へ帰って行く気がしなかった。彼は新宿の或店で一人で食事をし、それから外の同じような店で茶をゆっくり喫《の》み、それからこんどは銀座へ出て、いつまでも夜の人込みの中をぶらついていた。そんな事は四十近くになって彼の知った初めての経験といってよかった。彼は自分の留守の間、母がどんなに不安になって自分の帰るのを待っているだろうかとときどき気になった。その度毎に、そう云う母の苦しんでいる姿を自分の内にもう少し保っていたいためかのように、わざと帰るのを引き延ばした。よくもあんな人気のない家で二人きりの暮しに我
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