探しているような様子をしていたが、やがて巻煙草を一本とり出した。
「廊下なら煙草をのんで来てもいいかな。」
 菜穂子はしかしそれには取り合わないように黙っていた。
 圭介はとりつく島もなさそうに、のそのそと廊下へ出て行ったが、そのうちに彼が煙草をのみながら部屋の外を行ったり来たりしているらしい足音が聞えて来た。菜穂子はその足音と木の葉をざわめかせている雨風の音とに代る代る耳を傾けていた。
 彼が再び部屋に入って来ると、蛾が妻の枕もとを飛び廻り、天井にも大きな狂おしい影を投げていた。
「寝る前にあかりを消してね。」彼女がうるさそうに云った。
 彼は妻の枕もとに近づき、蛾を追い払って、あかりを消す前に、まぶしそうに目をつぶっている彼女の眼のまわりの黒ずんだ暈《くま》をいかにも痛々しそうに見やった。

「まだおやすみになれないの?」暗がりの中から菜穂子はとうとう自分の寝台の裾の方でいつまでもズック張のベッドを軋《きし》ませている夫の方へ声をかけた。
「うん……」夫はわざとらしく寝惚《ねぼ》けたような声をした。「どうも雨の音がひどいなあ。お前もまだ寝られないのか?」
「私は寝られなくったって平気だわ。……いつだつてそうなんですもの……」
「そうなのかい。……でも、こんな晩はこんな所に一人でなんぞ居るのは嫌だろうな。……」圭介はそういいかけて、くるりと彼女の方へ背を向けた。それは次の言葉を思い切って云うためだった。「……お前は家へ帰りたいとは思わないかい?」
 暗がりの中で菜穂子は思わず身を竦《すく》めた。「身体がすっかり好くなってからでなければ、そんな事は考えないことにしていてよ。」そう云ったぎり、彼女は寝返りを打って黙り込んでしまった。
 圭介もその先はもう何んにも云わなかった。二人を四方から取り囲んだ闇は、それから暫くの間は、木々をざわめかす雨の音だけに充たされていた。

   十二

 翌日、菜穂子は、風のために其処へたたきつけられた木の葉が一枚、窓硝子《まどガラス》の真ん中にぴったりとくっついた儘《まま》になっているのを不思議そうに見守っていた。そのうちに何か思い出し笑いのようなものをひとりでに浮べている自分自身に気がついて、彼女は思わずはっとした。
「後生だから、お前、そんな眼つきでおれを見る事だけはやめて貰えないかな。」帰りぎわに圭介は相変らず彼女から眼を外らせながら軽く抗議した。――彼女は、いま、嵐の中でそれだけが麻痺《まひ》したようになっている一枚の木の葉を不思議そうに見守っている自分の眼つきから不意とその夫の意外な抗議を思い出したのだった。
「何もこんな私の眼つきはいま始まった事ではない。娘の時分から、死んだ母などにも何かと嫌がられたものだけれど、あの人は漸《や》っといまこれに気がついたのかしら。それとも今までそれが気になっていても私に云い得ず、漸っときょう打解けて云えるようになったのかしら。何だかゆうべなどはまるであの人でない見たいだつた。……だが、相変らず気の小さなあの人は、汽車の中でこんな嵐に逢ってどんなに一人で怖がっているだろう。……」
 一晩じゅう何かに怯《おび》えたように眠れない夜を明かした末、翌日の午《ひる》近く漸《ようや》く雲が切れ、一面に濃い霧が拡がり出すのを見ると、ほっとしたような顔をして停車場へ急いで行ったが、又天候が一変して、汽車に乗り込んだか乗り込まないかの内にこんな嵐に遭遇している夫の事を、菜穂子は別にそう気を揉《も》みもしないで思いやりながら、何時かまた窓硝子に描かれたようにこびりついている一枚の木の葉を何か気になるように見つめ出していた。そのうちに、彼女はまた自分でも気づかない程かすかに笑いを洩らしはじめていた。……

 その同じ頃、黒川圭介を乗せた上り列車は、嵐に揉まれながら、森林の多い国境を横切っていた。
 圭介にとっては、しかしその嵐以上に、山の療養所で経験したすべての事が異常で、いまだに気がかりでならなかった。それは彼にとっては、云わば或未知の世界との最初の接触だった。往きのときよりももっとひどい嵐のため、窓とすれすれのところで苦しげに葉を揺すりながら身悶《みもだ》えしているような樹々の外には殆ど何も見えない客車の中で、圭介は生れてはじめての不眠のためにとりとめもなくなった思考力で、いよいよ孤独の相を帯び出した妻の事だの、その傍でまるで自分以外のものになったような気持で一夜を明かしたゆうべの自分自身の事だの、大森の家で一人でまんじりともしないで自分を待ち続けていたであろう母の事だのを考え通していた。此の世に自分と息子とだけいればいいと思っているような排他的な母の許《もと》で、妻まで他処《よそ》へ逐《お》いやって、二人して大切そうに守って来た一家の平和なんぞというものは、いまだに
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