何か気まずいことでもあったのかしらと私は思った。明さんは、その日はおあがりにもならないで、そのまますぐ帰って行かれた。
その晩、お前は私にその日の出来事を自分から話し出した。お前はK村に行くと、真っ先きに森さんのところへお寄りする気になって、ホテルの外で明さんに待っていただいて、一人で中にはいっていった。丁度|午餐《ごさん》後だったので、ホテルの中はひっそりとしていた。ボオイらしいものの姿も見えないので、帳場で居睡りをしていた背広服の男に、森さんの部屋の番号を教わると、一人で二階に上っていった。そして教わった番号の部屋のドアを叩くと、中からあの方らしい声がしたので、いきなりそのドアを開けた。お前をボオイかなんかだと思われていたらしく、あの方はベッドに横になったまま、何やら本を読んでいた。お前がはいってゆくのを見ると、あの方はびっくりなさったように、ベッドの上に坐り直された。
「おやすみだったんですか?」
「いいえ、こうやって本を読んでいただけなんです」
そう云いながら、あの方はしばらくお前の背後にじっと眼をやっていた。それからやっと気がついたように、
「おひとりなんですか?」とお前にきいた。
「ええ……」お前はなんだか当惑しながら、そのまま南向きの窓のふちに近よっていった。
「まあ、山百合がよくにおいますこと」
すると、あの方もベッドから降りていらしって、お前のとなりにお立ちになった。
「私はどうもそれを嗅《か》いでいると頭痛がしてくるんです」
「お母さんも、百合のにおいはお嫌いよ」
「お母さんもね……」
あの方は何故かしらひどく素気のない返事をなさった。お前は少しむっとした。……その時、向うの亭の木蔦《きづた》のからんだ四目垣《よつめがき》ごしに、写真機を手にした明さんの姿がちらちらと見えたり隠れたりしているのにお前は気がついた。あんなにホテルの外で待っているとお前に固く約束しておきながら、いつのまにかホテルの庭へはいり込んでいるそんな明さんの姿を認めると、お前はお前の幾分こじれた気もちを今度は明さんの方へ向けだしていた。
「あれは明さんでしょう?」
あの方はそれに気がつくと、いきなりお前にそう仰しゃった。そうしてそれから急になんだかお前に興味をお持ちになったように、じっとお前を見つめ出した。お前は思わず真っ赤な顔をして、あの方の部屋を飛び出してしまった
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