って来たときと同様に、鯱張《しゃちほこば》ってお辞儀をした。「どうぞお大事に……」
菜穂子はそのお辞儀の仕方を見ると、突然、明が彼女の前に立ち現われたときから何かしら自分自身に佯《いつわ》っていた感情のある事を鋭く自覚した。そして何かそれを悔いるかのように、いままでにない柔かな調子で最後の言葉をかけた。
「本当にあなたも御無理なさらないでね……」
「ええ……」明も元気そうに答えながら、最後にもう一度彼女の方へ大きい眼を注いで、扉の外へ出て行った。
やがて扉の向うに、明が再びはげしく咳き込みながら立ち去って行くらしい気配がした。菜穂子は一人になると、さっきから心に滲《にじ》み出《だ》していた後悔らしいものを急にはっきりと感じ出した。
十八
冬空を過《よぎ》った一つの鳥かげのように、自分の前をちらりと通りすぎただけでその儘消え去るかと見えた一人の旅びと、……その不安そうな姿が時の立つにつれていよいよ深くなる痕跡《きずあと》を菜穂子の上に印したのだった。その日、明が帰って行った後、彼女はいつまでも何かわけのわからない一種の後悔に似たものばかり感じ続けていた。最初、それは何か明に対して或感情を佯っているかのような漠然とした感じに過ぎなかった。彼が自分の前にいる間じゅう、彼女は相手に対してとも自分自身に対してともつかず始終|苛《い》ら立《だ》っていた。彼女は、昔、少年の頃の相手が彼女によくそうしたように、今も自分の痕を彼女の心にぎゅうぎゅう捺《お》しつけようとしているような気がされて、そのために苛ら苛らしていたばかりではなかった。――それ以上にそれが彼女を困惑させていた。云って見れば、それが現在の彼女の、不為合《ふしあわ》せなりに、一先ず落《お》ち著《つ》くところに落ち著いているような日々を脅《おびや》かそうとしているのが漠然と感ぜられ出していたのだ。彼女よりももっと痛めつけられている身体でもって、傷いた翼でもっともっと翔《か》けようとしている鳥のように、自分の生を最後まで試みようとしている、以前の彼女だったら眉をひそめただけであったかも知れないような相手の明が、その再会の間、屡々《しばしば》彼女の現在の絶望に近い生き方以上に真摯《しんし》であるように感ぜられながら、その感じをどうしても相手の目の前では相手にどころか自分自身にさえはっきり肯定しようとはしなかっ
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