も知れないと思った。彼は何も結婚後の菜穂子の事をたずねる気もしなかったし、又、そんな事はとても自分などには打明けてくれないだろうと思ったけれど、菜穂子の事なら今の自分にはどんな事でも分かってやれるような気がした。昔は彼女のする事が何もかも分からないように思われた一時期もないではなかったが、今ならば菜穂子がどんな心の中の辿《たど》りにくい道程を彼に聞かせても、何処までも自分だけはそれについて行けそうな気がした。……
「此の人はそれが誰にも分かって貰えないと思い込んで、苦しんでいるのではなかろうか?」と明は考え続けた。「菜穂子さんだって、昔はいつも僕の夢みがちなのを嫌ってばかりいたが、やっぱり自分だって夢をもっていたんだ、あの僕の大好きだった菜穂子さんのお母さんのように……。それがこんな勝気な人だものだから、心の底の底にその夢がとじこめられた儘、誰にも気づかれずにいたのだ、当の菜穂子さんにだって。……しかし、その夢はまあどんなに思いがけない夢だろうか? ……」
明はそんな風な想念を眼ざしに籠《こ》めながら、菜穂子の上へじっとその眼を据えていた。
彼女はしかしその間、目をつぶった儘《まま》、何か自身の考えに沈んでいた。ときどき痙攣《けいれん》のようなものが彼女の痩《や》せた頸《くび》の上を走っていた。
明はそのとき不意といつか荻窪の駅で彼女の夫らしい姿を見かけた事を思い出し、それを菜穂子に帰りがけにちょっと云って行こうとしかけたが、急にそれは云わない方がいいような気がして途中でやめてしまった。そしてさあもう帰らなければと決心して、彼は二三歩寝台の方へ近づき、ちょっともじもじした様子でその傍に立った儘、
「僕、もう……」とだけ言葉を掛けた。
菜穂子はさっきと同じように目をつぶった儘、相手が何を云い出そうとしているのか待っていたが、それきり何も云わないので、目をあけて彼の方を見て漸《や》っと彼が帰り支度をしているのに気がついた。
「もうお帰りになるの?」菜穂子は驚いたようにそれを見て、あまりあっけない別れ方だと思ったが、べつに引き留めもしないで、寧《むし》ろ何物かから釈《と》き放《はな》されるような感情を味いながら、相手に向って云った。「汽車は何時なの?」
「さあ、それは見て来なかったなあ。だけど、こんな旅だから、何時になったって構いません。」明はそう云いながら、はい
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