枝に寂しいほほ笑みを浮べて見せながら、そんな事を約束した。「では御機嫌よう」
 汽車はみるみる出て行った。汽車の去った跡、プラットフォームには急に冬らしくなった日差しがたよりなげに漂った。其処にぽつねんと一人残された明には、何か爽《さわ》やかな気分になり切れないものがあった。さて、これからどうしようかと云ったように、彼は何をするのも気だるそうに歩きだした。そして心の中でこんな事を考えていた。――結局は医者に見放されて郷里へ帰って行ったおようにも病人の初枝にも、さすがに何か淋しそうなところはあったけれども、それにしても世の中に絶望したような素振りは何処にも見られなかったではないか。寧《むし》ろ、二人ともO村へ早く帰れるようになったので、何かほっとして、いそいそとしているような安心な様子さえしていたではないか。此の人達には、それほど自分の村だとか家だとかが好いのだろうか?
「だが、そんなものの何んにもない此のおれは一体どうすれば好いのか? 此の頃のおれの心の空しさは何処から来ているのだ? ……」そう云う彼の心の空しさなど何事も知らないでいるようなおよう達に逢っていると、自分だけが誰にも附いて来られない自分勝手な道を一人きりで歩き出しているような不安を確めずにはいられなくなる一方、その間だけは何かと心の休まるのを覚えたのも事実だった。そのおよう達も遂に彼から去った今、彼の周囲で彼の心を紛わせてくれるものとてはもう誰一人いなくなった。そのとき彼は急に思い出したように烈《はげ》しい咳をしはじめ、それを抑えるために暫く背をこごめながら立ち止っていた。彼が漸《や》っとそれから背をもたげたときは、構内にはもう人影が疎《まば》らだった。「――いま事務所でおれにあてがわれている仕事なんぞは此のおれでなくったって出来る。そんな誰にだって出来そうな仕事を除いたら、おれの生活に一体何が残る? おれは自分が心からしたいと思った事をこれまでに何ひとつしたか? おれは何度今までにだって、いまの勤めを止め、何か独立の仕事をしたいと思ってそれを云い出しかけては、所長のいかにも自分を信頼しているような人の好さそうな笑顔を見ると、それもつい云いそびれて有耶無耶《うやむや》にしてしまったか分からない。そんな遠慮ばかりしていて一体おれはどうなる? おれはこんどの病気を口実に、しばらく又休暇を貰って、どこか旅に
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