らか残って日にちらちらしているのが見えるところまで歩いて行った。日の短くなる頃で、地上に印せられたその高い木の影も、彼女自身の影も、見る見るうちに異様に長くなった。それに気がつくと、彼女は漸っとその牧場から療養所の方へ帰って来た。彼女は自分の病気の事も、孤独の事も忘れていることが多かった。それほど、すべての事を忘れさせるような、人が一生のうちでそう何度も経験出来ないような、美しい、気散じな日々だった。
 しかし夜は寒く、淋しかった。下の村々から吹き上げてきた風が、この地の果てのような場所まで来ると、もう何処へいったらいいか分からなくなってしまったとでも云うように、療養所のまわりをいつまでもうろついていた。誰かが締めるのを忘れた硝子窓《ガラスまど》が、一晩中、ばたばた鳴っているような事もあった。……
 或日、菜穂子は一人の看護婦から、その春独断で療養所を出ていったあの若い農林技師がとうとう自分の病気を不治のものにさせて再び療養所に帰って来たという事を聞いた。彼女はその青年が療養所を立って行くときの、元気のいい、しかし青ざめ切った顔を思い浮べた。そしてそのときの何か決意したところのあるようなその青年の生き生きした眼ざしが彼を見送っていた他の患者達の姿のどれにも立ち勝って、強く彼女の心を動かした事まで思い出すと、彼女は何か他人事《ひとごと》でないような気がした。
 冬はすぐ其処まで来ているのだけれど、まだそれを気づかせないような温かな小春日和《こはるびより》が何日か続いていた。

   十六

 おようは、二月《ふたつき》の余も病院で初枝を徹底的に診て貰っていたが、その効はなく、結局医者にも見放された恰好《かっこう》で、再び郷里に帰って行った。O村からは、牡丹屋の若い主婦《おかみ》さんがわざわざ迎えに来た。
 二週間ばかり建築事務所を休んでいた明は、それを知ると、喉《のど》に湿布をしながら、上野駅まで見送りに行った。初枝は、およう達に附添われて、車夫に背負われた儘《まま》、プラットフォームにはいって来た。明の姿を見かけると、きょうは殊更に血の気を頬に透かせていた。
「御機嫌よう。どうぞ貴方様もお大事に――」おようは、明の病人らしい様子を反って気づかわしそうに眺めながら、別れを告げた。
「僕は大丈夫です。事によったら冬休みに遊びに行きますから待っていて下さい」明はおようや初
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