かりの小庭には、縁先きから雪の下がいちめんに生《お》い拡《ひろ》がって、それがものの見事に咲いていた。
「雪の下がきれいに咲いたものですね、こんなのもめずらしい。……」私はその縁先きちかくに坐りながら、気やすげにそう言ってしまってから思わずはっとした。
目を患っているおじさんにはもうそれさえよく見えないでいるらしかった。しかし、おじさんは、花林《かりん》の卓のまえに向ったまま、思いのほか、、上機嫌《じょうきげん》そうに答えた。
「うん、雪の下もそうなるときれいだろう。」
「……」私は黙っておじさんの顔のうえから再び雪の下のほうへ目をやっていた。
そのときおばさんがお茶を淹《い》れて持ってきた。そしてあらためて私に無沙汰《ぶさた》の詫《わ》びやら、手みやげのお礼などいい出した。無口なおじさんも急にいずまいを改めた。そこで私もあらためて、はじめておじさんのこの頃の容態を、むしろそのおばさんの方に向って問うのだった。
私が自分の生い立ちの一伍一什《いちぶしじゅう》をこと細かに聞いたのは、それからずっと夕方になるまでで、雪の下の咲いたやつがその間じゅう私の目さきにちらちらしていた。おばさんが殆《ほと》んどひとりで話し手になっていたが、無口なおじさんもときどきそれへ短い言葉を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28] 《は》さんだ。……
私はそれまで、誰れにもはっきりそうと聞かせられていたわけではなかったが、いつからともなく自分勝手に、自分が上条のうちの一人息子だのに小さいときから堀の跡目をついでいるのは、何か私の生れたころの事情でそうされたのだろう位にしか考えていなかった。十七八の頃になってからは、それまでひとりでに自分の耳にはいっていたいろんな事から推測して、自分の生れた頃、父が一時母と分かれて横浜かなんぞにいて他の女と同棲《どうせい》していたような小さなドラマがあって、そのとき隣りに住んでいた老夫婦がたいへん母に同情し、丁度自分たちのところに跡とりがなかったので私を生れるとすぐその跡とりにした、――その位の小さいドラマはそこにあったのにちがいないと段々考えるようになっていた。そんな事のあったあとで、父は再び東京に戻ってきて、向島のはずれの、無花果《いちじく》の木のある家に母と幼い私とをむかえたのではあるまいか。ともかくも、その小梅の父なる人は、幼い私のまえに、最初からいた人ではなくって、どうも途中からひょっくり、私のまえに立ち現れてきたような気のする人なのである。
しかし、その突然自分のまえに現れた小梅の父が、自分の本当の父でないかも知れないなんぞというようなことは、私はずっと大きくなって、ことによると自分の生《お》い立ちには、何かの秘密が匿《かく》されていそうだ位のことは気のつきそうな年頃になっても、私はいっこう疑わなかった。そして先きに母だけが死んで、父と二人きりで暮らさなければならなくなってからも、私はそれをすこしも疑うことをしなかった。
私が去年結婚して信州に出立した後、おばさんが或日向島の家にたずねてゆくと、父はたいへん上機嫌で、二人の間にはいろいろ私の小さいときからの話などがとりかわされたそうであるが、その折にも、真実の父がほかにあることをこの年になるまで知らずにいる私のことを、「あいつもかわいそうといえば、かわいそうだが、まあ自分にはこんなにうれしいことはない。……」といって、それから「どうか自分の死ぬまで何んにも知らせないでおいて下さい。」と何度もおばさんに頼んだそうだった。父の病に仆《たお》れたのは、それから数日立つか立たないうちだったのである。……
私がそれまで名義上の父だとばかりおもっていた、堀浜之助というのが、私の生みの親だったのである。
広島藩の士族で、小さいときには殿様の近習小姓《きんじゅこしょう》をも勤めていたことのある人だそうである。維新後、上京して、裁判所に出ていた。書記の監督のようなことをしていたらしい。浜之助には、国もとから連れてきた妻があった。しかし、その妻は病身で、二人の間には子もなくて、淋《さび》しい夫婦なかだった。
そういう年も身分もちがうその浜之助という人に、江戸の落ちぶれた町家の娘であった私の母がどうして知られるようになり、そしてそこにどういう縁《えにし》が結ばれて私というものが生れるようになったか、そういう点はまだ私はなんにも知らないのである。――ともかくも、私は生れるとすぐ堀の跡とりにさせられた。その頃、堀の家は麹町《こうじまち》平河町にあった。そして私はその家で堀夫婦の手によって育てられることになり、私が母の懐を離れられるようになるまで、母も一しょにその家に同居していた。しかし、私がだんだん母の懐《ふところ》を離れられるようになって来てからも、母はどうしても私を手放す気にはなれなかった。それかといって、いつまでも母子《おやこ》してその家にいることはなおさら出来にくかった。
とうとう母はひとり意を決して、誰にも知らさずに、私をつれてその家を飛び出した。私が三つのときのことである。丁度その頃堀の家には親類の娘で薫《かおる》さんという人が世話になっていた。その薫さんが私の母贔屓《ははびいき》で、すべての事情を知っていて、そのときも母の荷物をもって一しょについて来てくれた。麹町の家を出、母が幼い私をかかえて、ひと先《ま》ず頼っていったのは、向島の、小梅の尼寺の近所に家を持っていたいもうと夫婦――それがいまの田端のおじさんとおばさんで――のところだった。漸《ようや》っとその家に落ちついて、まあこれでいいと思っていると、突然薫さんが癪《しゃく》をおこして苦しみだした。それがなかなか快《よ》くならず、いつ一人で帰れるようになるか分からなかったので、とうとう役所に電話をしてすべてを浜之助に告げた。浜之助はすぐ役所から飛んできた。それが小梅のおばさんの家に浜之助のきた最初であり、また最後であった。夕方、ようやく薫さんの癪もおさまり、浜之助が連れもどることになって、皆して水戸《みと》さまの前まで送っていった。そして土手のうえで、母と私とは、薫さんを伴った父と分かれた。
なんでも私はたいへん智慧《ちえ》づくのが遅くって、三つぐらいになってもまだ「うま、うま……」ということしか言えなかったのに、その夕方、おばさんの家で父に逢《あ》うと、私はとてもよろこんでしまって、そのとき生れてはじめて「お父うちゃん……お父うちゃん……」と言えるようになった。よっぽどそんなところで思いがけず父に逢えたのがうれしかったものと見える。しかし、それが私のその父に逢うことの出来た最後であったそうだ。
それからまもなく、その父浜之助は、脳をわずらって、もう再び世に立たない人となってしまったのである。
私の母は、それまで弟たちのところにいたおばあさんに来てもらって、土手下の、水戸さまの裏に小さなたばこやの店をひらいた。
いままで私たちのいた麹町の堀の家は、立派な門構えの、玄関先きに飛石などの打ってあるような屋敷だった。それだものだから、そうやって土手下なんぞの小さな借家ずまいをするようになってからも、三つ四つの私は母やおばあさんに手をひかれて漸っとよちよちと歩きながら、そのへんなどに、ちょっと飛石でも打ってあるような、門構えの家でも見かけると、急に「あたいのうち……あたいのうち……」といい出して、その中へちょこちょこと駈けこんでいってしまって、みんなをよく困らせたそうだ。
それからもう一つ。――その頃よく町の辻《つじ》などに仁丹《じんたん》の大きな看板が出ていて、それには白い羽のふさふさとした大礼帽をかぶって、美しい髭《ひげ》を生《は》やした人の胸像が描かれてあった、――それを見つけると、私はきまってそのほうを指《さ》して、「お父うちゃん……」といってきかなかった、漸っとそのお父うちゃんというのが言えるようになったばかりの幼い私は。……それはおそらく自分の父がそういう美しい髭を生やした人であったのをよく覚えていたからでもあったろう。それにひょっとしたら私の父が何かの折にそんな文官の礼装でもしていたところを見たことでもあって、それをまだどこかで覚えていたのかも知れない。……
長いこと脳をわずらっていた、父浜之助が遂《つい》に亡くなったときは、私ももう七八つになっていたろう。私は三つのとき、母の手にひかれたまま、あの土手の上で父とわかれてからは、ただの一度もその父には逢わなかったらしい。その父の死んだときにも、私にはもう新しい父が出来ていたので、その手前もあったのだろう、何んにも知らされなかった。継母のほうは、私が十二三になるまで存命していたようだが、その死んだのも私は知らないで過ごした。
その継母という人は、全然私には記憶がないが、病身で、いつも青い顔をした、陰気な婦人だったらしい。しかし、不しあわせといえば不しあわせな人だった。晩年は藤森とかいう自分の血すじの甥《おい》を近づけていたが、その甥は鉱山かなんかに手を出し、失敗して、それきり失踪《しっそう》してしまったそうである。
四
私は或《あ》る一枚の母の若いころの写真を覚えている。それも震災のとき焼いてしまったが、私は亡《な》くなった母のことをいろいろ考えていると、ときどきそのごく若いころの母の写真を思い浮べることがある。まだどことなく娘々していて、ちっとも私の母らしくないものだが、それだけにかえって私の心をそそるものと見える。
いまから数年ほどまえに、或る雑誌から私の一番美しいと思った女性という題でもって何か書いてくれと乞《こ》われるままに、ふとその古い写真のことを思いついて、小さな随筆を一つ書いたことがある。ほんの素描のようなものに過ぎないが、ひと頃の私の母に対する心もちがよく出ていると思うので、此処《ここ》にそれを※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28] 《はさ》んでおきたいと思う。
※[#アステリズム、1−12−94]
花を持てる女
私がまだ子供の時である。
私はよく手文庫の中から私の家族の写真を取り出しては、これはお父さんの、これはお母さんの、これは押上《おしあげ》の伯父さんのなどと、皆の前で一つずつ得意そうに説明をする。そのうち私はいつも一人の見知らぬ若い女の人の写真を手にしてすっかり当惑してしまう。
いくらそれはお前のお母さんの若い時分の写真だよと云われても、私にはどうしてもそれが信じられない。だって私のお母さんはあんなによく肥えているのに、この写真の人はこんなに痩《や》せていて、それにこの人の方が私のお母さんよりずっと綺麗《きれい》だもの……と、私は不審そうにその写真と私の母とを見くらべる。
其処《そこ》には、その見知らぬ女の人が生花をしているところが撮《と》られてある。花瓶《かびん》を膝《ひざ》近く置いて、梅の花かなんか手にしている。私はその女の人が大へん好きだった。私の母などよりもっと余計に。――
それから数年|経《た》った。私にもだんだん物事が分かるようになって来た。私の母は前よりも一そう肥えられた。それは一つは、私をどうかして中学の入学試験に合格させたいと、浅草の観音《かんのん》さまへ願掛けをされて、平生|嗜《たしな》まれていた酒と煙草を断たれたためでもあった。そして私の母は、それ等《ら》の代りに急に思い立たれて生花を習われ出した。私はときおり、そういう生花を習われている母の姿を見かけるようになった。そんな事から私はまたひょっくり、何時《いつ》の間にか忘れるともなく忘れていた例の花を持った女の人の写真のことを思い出した。その写真は私の心の中にそっくり元のままみずみずしい美しさで残っていた。私はその頃は頭ではそれが私の母の若い時分の写真であることを充分に認めることは出来ても、まだ心の底ではどうしてもその写真の人と私の母とを一緒にしたくないような気がしていた。
それから更
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