らに数年が経った。私の母は地震のために死んだ。その写真も共に失われた。――そういう今となって、不思議なことには、漸《ようや》くその二つのものが私の心の中で一つに溶け合いだしている。そしてどういうものか、よく見なれた晩年の母の俤《おもかげ》よりも、その写真の中の見なれない若い母の俤の方が、私にはずっと懐《なつか》しい。私はこの頃では、子供のときその写真の人がどうしても私の母だと信じられなかったのは、その人を自分の母と信ずるにはその人があまりに美し過ぎたからではなかったかと解している。その人がただ美しいと云うばかりでなしに、その容姿に何処《どこ》ということなく妙になまめいた媚態《びたい》のあったのを子供心に私は感づいていて、その人を自分の母だと思うことが何んとなく気恥しかったのであろう。そう云えば、その写真のなかで母のつけていた服装は、決して人妻らしいものでもなければ、また素人娘《しろうとむすめ》のそれでもなかったようだ。今の私には、それがどうもその頃の芸者の服装だったようにも思われる。そんな事からして私はこの頃では私の母は父のところへ嫁入る前は芸者をしていたのではないかと一人でひそかに空
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