りしながら絶え絶えに聞えてくるのである。
私はこんな場末の汚い墓地に眠っている母を何かいかにも自分の母らしいようになつかしく思いながら、その一方、また、自分のそばに立ってはじめてこれからその母と対面しようとして心もち声も顔もはればれとしているような妻をふいとこんな陰鬱《いんうつ》な周囲の光景には少し調和しないように感じ、そしてそれもまたいいと思った。いわば、私は一つの心のなかに、過去から落ちてくる一種の翳《かげ》りと、同時に自分の行く末から差し込んでくる仄《ほの》あかりとの、そこに入りまじった光と影との工合を、何となしに夢うつつに見出《みいだ》していた。
寺男が苔を掃って香華《こうげ》を供えたのち、ついでに隣りの小さな墓の苔も一しょに掃っているのを見て、私はもう一度それに注目した。よほどそれは誰れの墓かと聞いてみようとしかけたが、何もいま聞くこともあるまいと思い返して、私はそのまま妻に目で合図をして、二人いっしょに母の墓のまえに歩みよって、ともどもに焼香した。
「これでいい……」私は何んとはつかずにそんなことを考えた。
二
私たちがひと先《ま》ず落ちついたさきは、信州の山んなかだった。
そこで十日ばかりが、なんということもなしに、過ぎた。何もかもこれから、――といったすっきりした気もちだった。
と、或《ある》あけがた、私たちはまだ寝ているうちに電報をうけとった。父の危篤を知らせて来たものだった。何んの前ぶれもなかったので、私たちは慌《あわ》てて支度《したく》をし、そのまま山の家を鎖《とざ》して、上京した。
正午ちかく向島のうちに着いてみると、そのあけがた脳溢血で倒れたきり、父はずっと昏睡《こんすい》したままで、私たちの帰ったのをも知らなかった。そういう昏睡状態はまだ二三日つづいていた。
そのあいだに、私たちはいろいろな人たちの見舞をうけた。父方の、四つ木や立石《たていし》の親戚《しんせき》の人々もきた。私の小さい時からうちの弟子《でし》だったもの、下職だったものたちも入れかわり立ちかわり来た。それから母方の、田端《たばた》のおばさんたちも来た。いとこたちも来た。それからまだ麻布のおばさん――私が跡目をついでいる堀家のほうのたった一人の身うち――までも来てくれた。
私はまだ自分が結婚したことをそういう人たちには誰れにも知らせていなかった。それで、はじめのうちは来る人ごとに妻をひきあわせていたけれど、
「そうだ、父は死ぬかも知れないのだ」と思うと、すこしでも父のそばにいた方がいいような気がした。
それからは私は妻のほうのことは田端のおばさんに一任して、自分はなるたけ父の枕《まくら》もとにいるようにしていた。云ってみれば、父がそうやっている私のことをなんにも知らずにいる、――それが私にそういうことを少しも羞《はに》かまずにさせていてくれた。
向うの間で、いま妻はどうしているだろうかと私はときおり気にかけた。すると、その妻が知らないいろいろな人たちの間でまごまごしながら茶など運んでいるもの馴《な》れない姿が目に見えるようで、私はそれに何か可憐《かれん》なものを感じることが出来た。いきづまるような私の心もちが、それによって不意とわずかに緩和せられることもあった。
父は四日目ぐらいから漸《ようや》く意識をとりかえしてきた。しかし、もうそのときは口は利《き》けず、右半身が殆《ほと》んど不随になっていた。いかにも変り果てた姿になってしまっていた。
が、それなりに、父は日にまし快方に向った。
「この分でゆけば安心だ。」皆がそういい出した。
私たちが漸っと信州の山の家にかえっていったのは、それから半月ほどしてからだった。父のほうがそうやってどうにか落ちついたとき、今度は私が工合を悪くした。それで、父のほうは親身に世話をしてくれる人々に托《たく》すことが出来たので、私たちは思いきって山の家にかえることにした。
それに私は一日も早く仕事をしはじめなければならなくなっていた。自分たちの暮らしのためばかりでなく、こんどは病人のほうにも幾分なりと仕送りしなければならないので、私はどうしていいか、しばらくは見当のつかないほどだった。
丁度そのとき或先輩が雑誌を世話してくれ、そこへ私は生れてはじめて続きものの小説を書くことになった。そのとき私はいまの自分の気もちに一番書きよさそうなものとして、自分の幼時に題材を求めた。一度は自分の小さいときの経験をも書いてみようと思っていたし、すこしまえにハンス・カロッサの「幼年時代」を読み、彼がそれをただ幼時のなつかしい想起としてでなしに、そこに何か人生の本質的なものを求めようとしている創作の動機に非常に共鳴していたので、こんどの仕事にはそう期待はかけられなかったが、とにか
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