くそういうものへの試みの一つとしてやれるだけのことはやってみようと考えたのだった。
「幼年時代」はそうして書きはじめたものなのである。
夏が過ぎ、秋になっても、私たちはまだ山で暮らしていた。冬が近づいて来る頃になって、私たちは慌てて山を引きあげ、逗子《ずし》にある或友人の小さな別荘にしばらく落ちつくことになった。そんな仮住みから仮住みへと、私は他の仕事と一しょにいつも「幼年時代」を持ち歩いていた。
父のほうは、秋になってよくなり出すと、ずんずん快くなった。小春|日和《びより》の日などには、看護の人に手をひいて貰《もら》って、吾妻橋《あずまばし》まで歩いていったという便《たよ》りなどが来た。それほど快くなりかけていた父が、二度目の発作を起したのは十二月のなかばだった。電報をみて、私たちが逗子から駈《か》けつけてきたときはもう夜中だった。父は深く昏睡したまま、まだ息はあったけれど、今度は私たちもあきらめなければならなかった。……
三
父の死後、私ははじめて自分の実父がほかにあって、まだ私の小さいときに亡《な》くなったのだということを聞かされた。それを私に聞かせてくれたのは、田端のおばさん、すなわち私の母のいもうとの一人で、震災まえまでは私たちのうちのすぐ隣りに住みついていたおばさんである。――
実は父の百カ日のすんだ折、寺でそのおばからちょっとお前の耳にだけ入れておきたいことがあるから、そのうちひとりのときに寄っておくれな、といわれていた。
まだ逗子に蟄居《ちっきょ》していた時分で、それに何かと病気がちの折だったので、私はおばにいわれていた事がときどき気になりながらも、なかなかひとりで東京に出て往《い》けなかった。が、そのうち何処《どこ》からか、去年の暮れごろから目を患《わずら》っていたおじさんが急に失明しかけているというような噂《うわさ》を耳にして、私はこれは早く往ってあげなければと思い、或《ある》日丁度自分の実家に用事があって往くことになっていた妻と連れだって東京に出て、私だけ手みやげを持って、震災後ずっと田端の坂の下の小家におじとおばと二人きりで佗住《わびずま》いをしている方へまわった。それはもう六月になっていた。
おじさんのうちでは、もうすっかり障子があけ放してあって、八つ手などがほんの申訣《もうしわ》けのように植わっている三坪ば
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