で、自分の幼年時代を好きなように形づくって、それを愉《たの》しんでいることが出来たのだった。

        五

 おばさんはまた私に母の実家のことを仔細《しさい》に話してくれた。しかし、そのときも私の期待を裏切って、母の若い頃のことは殆んどなんにも話して貰《もら》えなかった。そのうち、何かの折にでも自然に聞き出せるかも知れないから、いまはまあそう無理には聞かないことにする。……
 母の実家は西村氏である。父は米次郎といった人で、維新前までは、霊岸島に店を構えて、諸大名がたのお金|御用達《ごようたし》を勤めていた。市人《いちびと》でも、苗字《みょうじ》帯刀を許されていたほどの家がらだったそうである。母は茅野《ちの》氏で、玉《たま》といい、これも神田の古い大きな箪笥《たんす》屋の娘であった。玉は十六の年から本郷の加賀さまの奥へ仕えていた。そうして十九のときに米次郎のところに嫁《とつ》いだが、そのときの婚礼はまだ随分はでなものだったらしい。いくつも高張提灯《たかはりぢょうちん》をかかげて、花嫁の一行が神田から霊岸島をさして練ってゆくと、丁度途中にめ組の喧嘩《けんか》があった。そこで一行は迂回《うかい》をしなければならぬかとためらっていると、それをどこかの大名の行列かとまちがえて、喧嘩をしていた鳶《とび》の者たちが急にさあっと途《みち》を開いたので、そのままその前を通ってゆくことが出来た。――そのことを又、皆はたいへん縁起がいいといって喜んだものだった。
 だが、新郎新婦の運命はそれほどしあわせなものではなかった。やがて瓦解《がかい》になった。それはたちまち若い夫婦に決定的な打撃を与えた。諸侯に貸し付けてあった金子も当分は取り立てる見込みもつかず、そこで米次郎は窮余の一策として、麻布の飯倉片町に居を移して、大黒屋という刀屋をひらいた。それがうまく当って、一時は店も繁昌《はんじょう》した。私の母しげが長女として生れたのはその飯倉であった。
 しかし、その母の生れた明治六年は、また、廃刀令の出た年である。米次郎は再び窮地に立った。丁度そのとき質屋の株を売ろうとするものがあったので、よほど米次郎の心はそちらのほうに動いたが、それには玉がどこまでも反対した。質屋という商売を嫌《きら》ったのである。そこで米次郎もやむを得ずに芝の烏森《からすもり》に移って、小さな骨董《こっとう》
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