のうちの最も斬新な一つは、それは彼がその小説のなかに時間の經過する感じを與へようとしたためであることが解る。再びさつきのルタン紙上のインタアヴィユに戻るが、その中でかういふことを云つてゐる。
「汽車がうねりくねつた線路を走つてゐる間、或時は右に、或時は左に見える、あの小さな町の中にでもゐるやうに同じ人間が、まるで入れ代り立ち代り現はれてくる別々の人間であるかのやうに讀者に印象されるほどの、ひとつ人間のさまざまな姿は――その爲にのみ――時間の過ぎてゆく感じを與へるものだ。」
つまり、現實の中でも屡※[#二の字点、1−2−22]起ることであるが、いま自分の前にゐる一人の人間が、ちよつと時間が經ちさへすれは、それとはまるで異つた人間のやうに印象されてくることがある。それがわれわれには如何にも時間の過ぎつつあるといふことを感じさせる。――プルウストはさういふ「強い、ほとんど無意識的の印象」に目をつけて、それを彼の人物を描く方法に取り入れたのだ。例へば、「スワンの戀」のなかに描かれてゐるオデット・クレッシイだが、あれくらゐ時間の過ぎるにつれて刻々に變化する性格と容姿をもつた、少々妖精じみたところさへある女性は、ちよつと類が無いではないか。なるほど、オデットは何處かしらモリエェルの書いたセリメエヌに似てゐないことはない。まあ、ああいつたタイプの女にちがひない。しかし、それだつても、ボッチチェリイの描いたジェトロの娘に彼女が似てゐると云ふより以上のことではない。そしてさういふ聯想は、唯、プルウストが彼の人物を生かすことの出來た手腕において、さういふ大家たちの間に伍して少しも遜色のなかつたことを證明するやうなものであらう。
プルウストの人物の描き方については、さういふ際立つた特徴に次いで、もう一つの特徴が認められる。そのもう一つの特徴といふのは、――僕はこの間、コンブレエの教會での結婚式におけるゲルマント公爵夫人の顏をプルウストが描寫してゐる一節を讀み返しながら、意外に思つたのだが、そこをずつと前に初めて讀んだ時から、僕は何時の間にか自分勝手にその公爵夫人の顏を世にも美しいものに作り上げてしまつてゐたと見える。だが實際は、そこには、むしろ苛酷な位の筆で、ことさらにその「高い鼻、するどい眼、赤らんだ頬」を目立たせるやうな工合に、決して美しい顏としてでなく、夫人の顏が描かれてあるに
前へ
次へ
全17ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング