過ぎないのだ。僕はちよつと欺されてゐたやうな氣がした。「これは僕がずつと前に讀んだことのあるゲルマント夫人の顏[#「ゲルマント夫人の顏」に傍点]ぢやない。」――だが、僕はその一節をすつかり讀み畢へてその本を開ぢながら、もう一度その夫人の顏を宙に浮べて見た。すると、どうだらう。今度は、その高い鼻、碧い眼、赤らんだ頬がまだ僕の眼前に髣髴してゐるにもかかはらず、その夫人の顏はだんだん前に増して美しく思はれ出したのだ。「さう、やつぱり僕の知つてゐたゲルマント夫人だつたんだ!」――さうひとりごちながら、ははあ、こんなところにも、プルウストの作中人物を解く二つの鍵があるのかも知れぬと思つた。
 シャルル・デュ・ボスが、オペラの棧敷の中で捕まへてゐるのも、さういふゲルマント公爵夫人の感嘆すべき肖像畫の一つだ。

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 彼女(ゲルマント公爵夫人)を、薄あかりを浴びて物語めいてゐる他の娘たちよりも、ずつと上位に置いてゐるその美しさといふものは、彼女の頸や、肩や、腕や、胴などの上に、はつきりと、誰にもすぐ分るやうに、見えはしなかつた。そしてさういふ、彼女の微妙な、未完成な線は、われわれの目がそれを引き延ばさずには居られない、見え難い、不思議な線の正確な出發點であり、暗闇の中のスクリインの上に完全な姿となつて投影されてゐるスペクトルのやうな、その婦人のまはりでぴちぴち跳つてゐる線のおのづからなる塊りであつた。
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[#地から2字上げ]「ゲルマントの方」※[#ローマ数字1、1−13−21]

 さういふ、われわれの目がそれから現實的《レアル》な線を引き延ばさずにはゐられないやうな、不思議な、見え難い線、そこにこそ、プルウストの目のみならず、彼の精神が絶えず追究してゐたところの實驗があるのだ、とシャルル・デュ・ボスは説いてゐるのである。

          ※[#アステリズム、1−12−94]

 なんだかすこし尻切蜻蛉のやうだが、ここいらで一度ペンを置く。が、僕は君にもつともつとしやべりたいことがあるのだ。僕はプルウストに關する著書が後から後からと出るのに驚いてゐたものだが、この調子なら僕にもそのうち一册の書物位は書けさうな氣がする。が、今日はもうへとへとに疲れた。當分僕のプルウスト熱はさめさうもないから、どうぞ次の僕の手紙を待つてゐて呉れたまへ
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