果實のやうな匂ひの中に、再び身を埋めてゆくのであつた。
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[#地から2字上げ]「スワン家の方」※[#ローマ数字1、1−13−21]
私が諸君に讀まうと思つてゐるもう一つの一節は、プルウストが數秒間のことを描寫しながら僅か半頁足らずの中に收めることの出來た、感覺のみならず、感情の量をも諸君に感得せしめるだらう。それはオデットがとうとう打負かされてスワンの腕の中に身を投ずる瞬間だ。
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彼は彼のもう一方の手をオデットの頬にそうて上げた。彼女は彼を見つめた。あのフロレンス派の巨匠の描いた女たち(それに彼女がよく肖てゐると彼の思つてゐた)の持つてゐるやうな、物憂げな、重々しい樣子をして。そして彼女の輝かしい、大きい、しなやかな瞳は、その眼瞼《まぶた》の線にひつついて、まるで二粒の涙のやうに彼女の頬から落ちさうだつた。彼女は少し彼女の頸をかしげてゐた。あの基督教的であると同時に異教的な繪のなかですべての女たちがしてゐるやうに。そしてさういふ姿勢は、もともと彼女には習慣的のものではあつたし、それにまたかういふ瞬間にはそれが持つてこいであるのをよく知つてゐて、さうすることを忘れぬやうに心がけてゐたのであつたが、さういふ姿勢のままで彼女は自分の顏をスワンから離すために全力を出してゐるやうに見えた。あたかもそれが何かの見えない力によつてスワンの方へ引き寄せられてでもゐるかのやうに。そしてさういふ努力もとうとう空しかつたかのやうに彼女がその顏をスワンの脣の上に落してしまはないうちに、それを少し離して、一瞬間、兩手で支へてゐたのはかへつてスワンの方であつた。それは彼が、丁度、自分の非常に可愛がつてゐる息子の授賞式に與るべく招ばれてゐる兩親のやうに、そこに駈けつけ、あんなにも長い間あこがれてゐたその夢の實現を目のあたりに見ようとする瞬間を、出來るだけ自分の心に取つて置きたかつたからだ。恐らくまたスワンは、まだ自分のものにしてゐない、まだ接吻をしてゐない、そしてさういふものとしてはもう見納めになるであらう、このオデットの顏の上に、丁度その出發の日に、永久に立ち去らうとする風景を記憶して置かうとする、あの旅人のやうな眼ざしを注いでゐたのにちがひない。
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[#地から2字上げ]「スワン家の方」※[#ローマ数字2、1−13−
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