。何故なら、まだ三頁も讀まないうちに、多くの讀者を中止させ、退屈だと叫ばしむるものがその密度だからである。
 しかし私は、プルウストの作品の最も重要な特色を除いては、これをもつてその主要なものとなすに躊躇しない。その密度とは一體どんな性質のものかと云ふと、――それを生じさせてゐるものは、頁の各糎平方の中に夥しい量で塊まり合つてゐる感覺、印象及び感動なのである。恐らく現實がかくも纖細な、かくも精密な方法で透現されたことは未だ曾つてあるまい。
 まあ、コンブレエのこの一節を聞きたまへ。

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 空氣(レオニイ叔母さんの部屋の)は、大へん滋養分のある、味のよい、沈默の精のやうなもので飽和されてゐたものだから、私はそこへは一種の強烈な食慾をもつて近づいて行つた。ことに復活祭の休みの初めのまだ寒い朝々は、私がコンブレエに着いたばかりといふせゐもあつて、私はそれを、一層よく味つたのである。私は私の叔母さんにお早うを云ひにその部屋へ這入る前に、私はちよつと次の部屋で待たされるのであつたが、そこにはすでに二個の煉瓦の間に火が熾されてゐ、その火の前にはまだ冬らしい日射しが温まりに這ひよつてゐた。そしてそのため部屋中に煤煙のにほひがこびりついてゐた。まるで、田舍によくある大きな竈口とか、古い館の煖爐の枠などのやうに。(さう云つたものの下では、人々は冬籠りの面白さを増さすために、戸外に、雪でも、雨でも、はたまた大洪水のやうな災害でもいいから起ることを願ふものだが……)私は祈祷臺と、いつもホックでカバアをとめた、凹んだ天鵞絨の肱かけ椅子との間を行つたり來たりしてゐた。その間、火はあの食慾をそそるやうな香り(それでもつて部屋の空氣はすつかり凝固してゐたが、やうやく朝のしつとりした、活氣のある新鮮さがそれを搖り動かし、「立ち昇らせ」てゐた)をパイのやうに燒きながら、それらの香りを薄く剥ぎ、金色にし、皺をよらせ、ふくらませてゐた。目には見えないが手で觸れられなくもない田舍菓子、あの大きな饅頭のやうなものにそれを仕上げながら。そんななかで、私は戸棚だの、箪笥だの、壁紙だのの、もつとしやりしやりした、もつと微妙な、もつと好評な、しかしもつともつと乾燥した匂ひを嗅ぐや否や、私はいつも人知れぬ烈しい欲望をもつて、あの花模樣のある寢臺掛の、何とも云ひやうのなく汚れた、にぶい、不消化な、
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