「つもさうしてゐた子供の頃の僕に、その時の僕を立戻らせてしまつてゐたからだつた。そしてそんな僕には、僕の幼時の全體が、――「ジゴマ」だの、「名金」だの、レストランではじめて食べた蝦フライの匂だの、ふだんはどうもよく思ひ出せないでゐる死んだお母さんの聲だのが、思ひがけずはつきりと泛んで來てゐたからだつた。……
僕は今朝の夢のおかげで、それらの過去の經驗の一切を知らず識らずの裡に再び思ひ出してゐたのだ。それで今朝はこんなに機嫌がよいのだ。
※[#アステリズム、1−12−94]
何故こんな夢の話を君にしだしたのか、君にはもう解つてゐるだらう。さう、君の御推察のごとく、たしかにこの夢にはプルウストの影響がある。そしてそれからそれへと僕は最近讀み出してゐるプルウストのことを考へてゐるうちに、なんだかとても君に手紙が書きたくなつた。と言つたからつて、何もプルウストのことを君に話して聞かす自信があるほど、僕はまだ充分には讀んでゐない。君のところからプルウストの本を腕一ぱいかかへて借りて來たのはもう數過間前だが、僕の佛蘭西語のあまり出來ないことは御存知のとほりだし、それに第一あのプルウストの難解な文章だらう。おまけにそれが小さい活字でぎつしり組んであるので、(これは餘談だが、誰やらがうまいことを言つてゐた、プルウストの小説は、他の作家のものがすべて時[#「時」に傍点]や分[#「分」に傍点]を記述するのとは異り、秒[#「秒」に傍点]を記述してゐるのだから、ああいふ小さい活字で組まなくつちや感じが出まいと。)一日に一頁讀んだだけでも大抵がつかりする。とても、どの一册だつて初めから終りまで通讀しようなんといふ氣にはなれない。だから僕は手あたり次第に一册引つこ拔いては、出まかせに開けた頁を讀むことにしてゐる。かうして讀むと割合に倦きずに讀める。――すこし亂暴なやうだが、その後N・R・Fのプルウスト追悼號の中でヴァレリイがプルウストの作品は何處から讀み始めて何處で切つても差支へないものだと言つてゐるのを發見して大いに意を強くしたね。追悼號と云へば、あれで見ると佛蘭西の歴とした文人たちも、プルウストを讀むのにかなり閉口したらしく、中でもルネ・ボワレエヴといふ作家などは、最初は「スワン家の方」をどうしても讀み通すことが出來ないで途中で投げ出したが、シャルル・デュ・ボス
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