A忽ち消えるやうにその部屋を出て行つたさうです。――そのあとで、その友人は何んだか、その異樣な客が自分の部屋から、自分では氣づかないでゐた形や、色や、匂ひや、音などを持つて行つてしまつたやうな、妙な苛立たしさを感じずには居られなかつたと告白して居ります。

          ※[#アステリズム、1−12−94]

「プルウストの聲は忘れられない。」と、彼の年少の友であつたコクトオが書いてゐます。「僕には彼の作品を聽かずに[#「聽かずに」に傍点]、彼の作品を讀むことは困難だ。スワンだとか、アルベルティヌだとか、シャルリュスだとか、ヴェルデュランだとかが喋舌るとき、僕は、プルウストが喋舌るときの、喋舌らうとして唸るときの、腹の底から笑ふやうな、不確かな、引き伸ばされた聲を聽くやうな氣がする。」――さう言はれると、プルウストのそんな聲を知らない我々にも、その聲のアクセントの描く曲線は朧げながら辿れるやうな氣もしますけれど、さて、その微妙なところになりますと、我々外國人の耳にはなかなか掴みにくいのであります。ことに飜譯などで讀む場合は、先程説明しましたやうな比喩の方はどうにか解るやうな氣もしますが、かういふ文章のリズムは全然解りつこないと斷言してもいいかと思ひます。
 私は冒頭に、どんな風にでも構はずに表現してしまふのが散文の本質だと述べ、只今は、さういふプルウストの文體の微妙な味にまでも迫らうとしました。しかし、さういふ文體の微妙な味といふものは、作家がどんなに無頓着に書かうと、おのづからそのうちに具はつてしまふものでありますので、一層それが微妙なものであることを御注意申し上げたいと思ひます。

 プルウストの文體は、注意深く見てみますと、以上のやうな微妙なものでありますが、その表面は、文法上の誤りなども大變多いさうで、いかに贔屓眼に見ても、甚だ不手際なものであります。それは先程も述べましたやうに、一瞬の感覺から、すぐその場で、何か永久性のある精神的なもの(これこそ本當の現實なのでありますが)を抽き出さうとする困難な仕事、その仕事に參加する夥しい數の記憶のこんがらかつた現はれでありますが、――もう一つ、その出發點となつてゐる、感覺そのものの豐富さに依ると言はなければなりません。
 コクトオの話によりますと、プルウストから受取つた手紙には、いつも「僕らがそんな事をしたとは一向信じられない、その癖、どうも僕らがしたらしい、そして唯、僕らの粗雜な感覺がこれを氣づかないでゐたに過ぎないところの、さまざまな被害の苦情」が一ぱい書いてあつたさうであります。この話や、さつき眞夜中にプルウストの訪問を受けた友人の話(プルウストが歸つて行つたとき何んだか自分の部屋の、自分では氣づかないでゐた形だの、色だの、匂ひだのを持つて行かれたやうな一種の苛立たしさを感じたといふ)などから推して見ましても、確かにプルウストは他の人間の全く知らないやうな感覺の領分と交渉を持つてゐたことが理解できます。さういふ今まで誰もが語らうとしなかつた領分内のことを、プルウストは語らうとしましたから、甚だ不器用にしか語れなかつたのだと言ふことが出來ます。そしてさういふ不器用な、ぎごちないものこそは、プルウストに限らず、あらゆる獨創的な作家に背負はされてゐるところのものであると申しても差支へないやうであります。

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附記 「マルセル・プルウスト」はもうかれこれ十數年前の舊稿である。それ以來、私はいくたびかプルウストを讀み、そのつどこの大いなる作家に對する敬愛を深めて來た。今年の夏も私は一月ばかりプルウストを讀んでゐた。このごろの私にとつてはこの此類のない作家が彼獨自の新しい方法で絶えず人生の姿を明らかにしてゆく――その見事な過程のみならず、そこに漸次見出されてゆく人生の業苦のやうなものがひしひし胸に迫つて來るのである。いまの私はさういふプルウストについてこそ語りたい。――しかし、いまだ機會を得ず、此處にはこの舊稿をその儘載せておくことにした。(昭和十八年十二月記)
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底本:「堀辰雄作品集第五卷」筑摩書房
   1982(昭和57)年9月30日初版第1刷発行
初出:「日本現代文章講座 鑑賞篇」厚生閣
   1934(昭和9)年5月19日
※初出時の表題は「マルセル・プルウストの文章」、「狐の手套」野田書房(1936(昭和11)年3月20日)収録時「プルウストの文体について」と改題、「曠野」養徳社(1944(昭和19)年9月20日)収録時「リラの花など――プルウストの文体について」と改題、「堀辰雄作品集第二・美しい村」角川書店(1948(昭和23)年10月30日)収録時「リラの花など」と改題
入力:tatsuki
校正:染川隆俊

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