スのに過ぎなかつたでせう。が、彼の作品がさういう印象派以上の何物かであり得ましたのは、――
 此處で、私はプルウストの友人のある音樂家の語つた彼の逸話を插入することを許して貰ひます。その音樂家の話によりますと、ある田舍の別莊に彼と一緒に招ばれたときのこと、その庭園を二人で散歩中、突然彼は一本の薔薇の木の前に立ち止つたきり、その友人のことなど忘れてしまつたやうに、いつまでも、顏をしかめたまま、それを見つめ續けてゐたさうであります。さういふ殆ど傍若無人と言つていいほどな、そしてその當人自身をも苦しめるやうな、何物にか強制されてゐるかに見える模索が、こんなアスパラガスのやうなものの前でもなされてゐることを諸君も既にお氣づきになつてゐるだらうと思ひます。プルウスト自身も、さういふ彼の倦まざる模索を、小説の終りの方で、こんな風に説明してゐます。「私の感じたものを薄くらがりから抽き出して、それを何か精神的に同値のものに置き換へなければならないのだ。」そしてさういふ感覺に瞬間的に訴へられるもの、云はば泡沫にも似たものから、もつと永遠性のある、何か精神的なものを抽き出さうとする、さういふプルウストの模索こそ、彼の作品を單なる印象主義のそれから切り離してゐると言はなければなりません。

          ※[#アステリズム、1−12−94]

 もう一つ、「スワン家の方」から引用して見ませう。今度はリラの花の描寫です。
[#ここから1字下げ]
 リラの季節もその終りに近づいてゐた。二三の花はまだ彼等の花のデリケエトな氣泡[#「氣泡」に傍点](bulles)を葵色《モオヴ》の高い枝付燭臺のやうに噴出[#「噴出」に傍点](effusaient)させてゐたけれど、つい一週間前まではその香ばしい泡[#「泡」に傍点](mousse)が逆卷いてゐた[#「逆卷いてゐた」に傍点](〔de'ferlait〕)それ等の葉の多くの茂みの中では、空虚《うつろ》な、ひからびた、香りのない泡[#「泡」に傍点](〔e'cume〕)が、ちぢまり、黒ずみながら、萎んでゐた。
[#ここで字下げ終わり]
 これはクルチウスといふ獨逸の批評家が「ここで、プルウストは、比喩の連絡によつて、我々にリラの實體[#「實體」に傍点]そのものを目に見えるやうにさせてゐる」と言つて激賞してゐる一節であります。クルチウスが説明しますには、「先づ、植物の生長のリズムが「噴出する」(effuser[#「effuser」は斜体])といふ言葉によつて我々に與へられる。それはまことに「葵色の高い枝付燭臺のやうに」輝かしく見える。それから、小さな星状の花が、水面に生れる「氣泡」(bulle[#「bulle」は斜体])に比較されつつ示される。」(私の飜譯では、それ等の此喩の順序が逆になつてゐますが、これは已むを得ません。)それから、すべての比喩が岸邊に戲れる波に持つて行かれてゐます。(「逆卷く」(〔de'ferler〕[#「〔de'ferler〕」は斜体])「泡」(mousse[#「mousse」は斜体])「泡」(〔e'cume〕[#「〔e'cume〕」は斜体])――プルウストは、彼自身でも、「フロオベルのスタイルについて」といふエッセイの中で、「自分は比喩のみがスタイルに或種の永遠性を與へ得ると思ふ。」と述べてゐますが、これらの海の要素から借りて來た一聯の比喩が、いかにリラの實體そのものを我々の目に見えるやうにさせるのに效果的であるか、これは全然リラの花なんといふものを知らない我々をも、それを知つてゐるかのやうに樂しませてくれるのでも知られます。そこにこそ藝術上の創造があるのであります。
 クルチウスは更らに、これらの章句のリズムの素晴らしさを説明してゐますが、それは原文で味つていただくより仕方がありませんし、それは私などの持つてゐる語學力では、なかなかその妙味はわかりません。――しかし、プルウストが、どんなにさういふ章句のリズムに注意してゐたかは、彼の友人の一人が語つてゐる次ぎのやうな逸話によつても解りませう。
 プルウストは、ある眞夜中に(それは彼が何時も友人を訪問する時間でしたが)もう寢てゐたその友人のところに訪ねて來ました。さうしてそんな遲い訪問をいかにも慇懃に言ひ譯をしながら、佛蘭西語で sans rigueur[#「sans rigueur」は斜体](嚴しくなく)といふのを伊太利語ではどういふか、その正確な發音法を教へて貰ひたいと頼みました。そこでその友人は即座に senza rigore[#「senza rigore」は斜体] と發音しました。するともう一度それを繰り返してくれと言ふので、今度はゆつくりと發音しますと、それをプルウストは、目をつぶりながら、聞いてゐたさうです。それから丁寧にお禮を云つて
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