ヘ決して面をかぶらない。彼は普通の人間なのである。
 舞臺はワキの出によつて、靜かに始まる。正面までしづしづと出てきたワキは、我々に向つて、名乘りを上げる。例へば、諸國行脚の僧などである。それから彼はワキ座につく。そして橋がかりの方へ目を据ゑて、彼は待つてゐる。
 彼が待つてゐる、と何びとかが現はれてくるのである。
 神、英雄、仙人、亡靈、鬼など――シテはいつも見知らぬものの使者である。そしてそれに準じて彼は面をつけるのである。それはワキに自分を發《あば》いて呉れるやうにと歎願する、覆ひ隱れた、祕密な何物かである。その歩き方と所作は、それを引きつけそれを彼の想像地帶に囚へたままにしてをるところの、ワキの眼差しの函數《フォンクシオン》である。例へばそれは、その亡靈がその殺害者に一歩々々近づかうとする、殺された女などである。――ワキは、長い間、彼女の上に目を据ゑてゐる、看客は彼を見守つてゐる、彼は目ばたきさへしてはならない。……ワキは尋ねる、シテは答へる、地謠が註釋する。そしてこの面をかぶつた、悲愴なる來者は彼をそんな風に來らしめた者に、涅槃をもたらす。そして彼(シテ)は音樂でもつて、像《
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