ヘそのなかの「能」といふ小論文を讀みかへすためである。

「劇とは何事かが到來するものであり、能とは何びとかが到來するものである」といふ彼らしい莊重な定義をいきなり冒頭に置いてから、クロオデルは、先づ、橋懸りと本舞臺とからなる舞臺の説明から始め、それから能の音樂――囃子と地謠と――を紹介する。それらの囃子の中で、あの哀調に充ちた笛を「過ぎゆく時間の我々の耳に對するときをりの轉調、演者の背後での時間と瞬間との對話」であると言つてゐるなどは面白い。又、地謠――これは、ギリシヤ式の合唱(〔Le Choe&ur〕)と云ふ言葉を使つてゐるが――は筋《アクシオン》には關與せずに、單にそれに非人格的な註釋をつけ加へるものだと紹介してゐる。それは過去を語り、風景を敍し、イデエを展開させ、登場人物を説明し、詩又は歌曲によつて應答する。「それは物語る彫像の傍らにうづくまつたまま、夢み、私語するのである。」

 さて、次に登場人物が説明されてゐる。それは二人きりである、即ちワキとシテである。そのいづれも一人か數人のツレを伴つてゐることもあり、又、ゐないこともある。
 ワキは凝視し、待ちうけてゐる者である。彼
前へ 次へ
全7ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング