ヴェランダにて
堀辰雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)題辭《エピグラフ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)「|置き換へ《トランスポジション》」

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Le vent se le`ve, il faut tenter de vivre.〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 一九三五年晩秋。或高原のサナトリウムのヴェランダ。二人の患者の對話。
A 君はよくさうやつて本ばかり讀んでゐられるなあ。
B うん。どうも書くことを禁ぜられてゐると、本でも讀んでゐるより他に時間のつぶしやうがないからね。しかし、かうやつて本でも讀みながら、それとなく次の仕事のことでも考へてゐるうちが、僕等には一番愉快なのだよ。
A その本は何だい?
B これか。これはジャック・リヴィエェルの「フロオランス」といふ小説だ。これを書きかけで、この可哀さうな男は死んでしまつたのだ。
A リヴィエェルつて「エテュウド」を書いた奴かい?
B うん、あいつだ。あの「エテュウド」を飜譯した連中に云はせると、リヴィエェルなんていふのはまるで希臘神話の中の龜みたいな奴で、生れつき飛べないくせに自分でも飛ばうとして、鷲かなんぞに引張り上げて貰つたが、途中で墜落してしまやあがつたと云ふのだが、――ほら、そんな繪があの本の表紙についてゐたらう? ――隨分怪しからんことを云ふと思つて、すこしリヴィエェルが可哀さうになつてゐたが、どうもこの「フロオランス」なんか讀んでゐると、それも半ば肯定したくなつてくるね。……僕はずつと前から、この「フロオランス」といふ小説の草案のやうなものだけは知つてゐた。隨分面白いものになりさうで、大いに期待してゐた。それがやつと今年の春に――リヴィエェルが死んでからもう十年になるが、――單行本になつたので、早速取り寄せて貰つたのだが、讀んでみたら草案なぞで想像してゐたのとはまるつきり違ふ。期待が大きかつただけ、それだけ失望も大きいのだ。
A そんなにつまらないのかい?
B うん。つまらないと云へばつまらないけれど、さう簡單にも片づけられないね。ただ、どうも僕の想像してゐたのとまるつきり違ふんでね。どう違ふかといふと、その草案などで見ると、リヴィエェルは非常に小説らしい小説――例へばメレディスみたいな客觀的小説を書きたがつてゐるのだね、少くとも讀者を「リヴィエェルではない何物かの眞中に投ずる」やうな小説を意圖してゐる、――が、出來上つたものは、いや出來上りかかつてゐたものは、まるで論文みたいな小説なんだ。どこまでもリヴィエェルがつき纏つてゐる。「エテュウド」の臭ひがする。これはエテュウド・プシコロジック[#「エテュウド・プシコロジック」に傍点]か。……しかし、途中でつまらなくなつて何度もはふり出さうと思ふんだが、それでもやつぱり最後までかうやつて讀んでゐる。何が僕にこの本を棄てさせないのかしらと、讀むのに倦いては考へて見るんだが、そんな時にひよつくり死を前にしながらこの小説を書いてゐるリヴィエェルの悲痛な姿が浮んでくることがある。……。僕は前に彼の妹の書いた囘想記を讀んだことがあるんだ。それに據ると、リヴィエェルは死ぬ一年ばかり前にこの仕事にとりかかつてからと云ふもの、それまで長いことすつかり失つてゐた少年時代の無邪氣な樣子、――殊に遊戲なんぞに夢中になつてたときのやうな樣子を取りもどし出し、さうしては口癖のやうに「僕にだつて小説が書けることを皆に分らせてやるんだ」と云つたり、「ああ早くこの本の出來上るのを見たいがなあ」と子供のやうに氣短かになつたり、又、ラジィゲの死んだ時は「僕もこんな風に死んでゆくんだよ」などと妹に云つたりしたさうだ。そんなに大事だつた小説を書きかけで死んで行かなけれはならなかつた男、しかもその書きかけの小説すら恐らく彼自身の期待からもひどく外れてしまつてゐたであらうこと、最後になつて遂に自分の才能を自覺しなければならなかつたこと、そんなことを考へたら誰でもこの小説を最後の頁(痛ましくも中絶されてゐる……)まで讀んでやりたくなるだらうぢやないか。すこし感傷的になつたが、もう止さう。さうして別の方から出なほさう。どうも僕はこんなことを喋舌つてゐるうちに、「フロオランス」にあるのはそんなものだけぢやないことに氣がつき出してきたんだ。――やつぱり、この小説な
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