った。が、ただ彼女を取りまいているそういう混血児たちは何とはなしに不愉快だった。それは軽い嫉妬《しっと》のようなものであるかも知れないが、それくらいの関心は彼もこのお嬢さんに持っていたと言ってもいいのである。

 それで彼は何の気もなくそのお嬢さんのあとから歩いて行ったが、そのうち向うからちらほらとやってくる人人の中に、ふと一人の青年を認めた。それは去年の夏、ずっと彼女のそばに附添ってテニスやダンスの相手をしていた混血児らしい青年であった。彼はそれを見るとすこし顔をしかめながら出来るだけ早くこの場を離れてしまおうと思った。その時、彼はまことに思いがけないことを発見した。というのは、そのお嬢さんとその青年とは互にすこしも気づかぬように装いながら、そのまますれちがってしまったからである。唯《ただ》、そのすれちがおうとした瞬間、その青年の顔は悪い硝子を透して見るように歪《ゆが》んだ。それからこっそりとお嬢さんの方をふり向いた。その顔にはいかにも苦《にが》にがしいような表情が浮んでいた。
 このエピソオドは彼を妙に感動させた。彼はその意地悪そうなお嬢さんに一種の異常な魅力のようなものをさえ感じた。勿論《もちろん》、彼はその混血児の側にはすこしも同情する気になれなかった。
 その晩はベッドへ横になってからも、何度も同じところへ飛んでくる一匹の蛾《が》のように、そのお嬢さんの姿がうるさいくらいに彼のつぶった眼の中に現れたり消えたりするのであった。彼はそれを払い退《の》けるために彼の「ルウベンスの偽画」を思い浮べようとした。が、それが前者に比べるとまるで変色してしまった古い複製のようにしか見えないことが、一そう彼を苦しめた。

        ※[#アステリズム、1−12−94]

 しかし翌朝になってみると、そのふしぎな魅力は夜の蛾のようにもう何処《どこ》かへ姿を消してしまっていた。そうして彼は何となく爽《さわ》やかな気がした。
 午前中、彼は長いこと散歩をした。そして、とあるロッジの中で冷たい牛乳を飲みながら、しばらく休むことにした。彼はこんなに爽やかな気分の中でなら、夫人たちに昨日からのエピソオドを打明けても少しもこだわるようなことはないだろうと思ったほどであった。
 それは町からやや離れた小さな落葉松《からまつ》の林の中にあった。
 木のテエブルに頬杖《ほおづえ》をついている彼の頭上では、一匹の鸚鵡《おうむ》が人間の声を真似していた。
 しかし彼はその鸚鵡の言葉を聴《き》こうとはしなかった。彼は熱心に彼の「ルウベンスの偽画」を虚空に描いていた。それが何時《いつ》になく生き生きした色彩を帯びているのが彼には快かった。……
 その瞬間、彼は彼のところからは木の枝に遮《さえ》ぎられて見えない小径の上を二台の自転車が走って来て、そのロッジの前に停まるのを聞いた。それからまだその姿は見えないけれど、若い娘特有の透明な声が聞えてきた。
「なんか飲んで行かない?」
 その声を聞くと彼はびっくりした。
「またかい。これで三度目だぜ」そう若い男の声が応じた。
 彼は何となく不安そうにロッジの中にはいってくる二人を見つめた。意外にもそれはきのうのお嬢さんだった。それから彼のはじめて見る上品な顔つきをした青年だった。
 その青年は彼をちらりと見て、彼から一番離れたテエブルに坐ろうとした。するとお嬢さんが言った。
「鸚鵡のそばの方がいいわ」
 そして二人は彼のすぐ隣りのテエブルに坐った。
 お嬢さんは彼に脊なかを向けて坐ったが、彼には何だかわざとかの女がそうしたように思われた。鸚鵡は一そう喧《やか》ましく人真似《ひとまね》をしだした。かの女はときどきその鸚鵡を見るために脊なかを動かした。その度毎《たびごと》に彼はかの女の脊なかから彼の眼をそらした。
 お嬢さんはその青年と鸚鵡とをかわるがわる相手にしながら絶えず喋舌《しゃべ》っていた。その声はどうかすると「ルウベンスの偽画」の声にそっくりになった。さっきこのお嬢さんの声を聞いて彼がびっくりしたのはそのせいであったのだ。
 お嬢さんの相手の青年はその顔つきばかりではなしに、全体の上品な様子が去年の混血児たちとはすこぶる異《ちが》っていた。すべてがいかにもおっとりとして貴族的であった。そういう両者の対照の中に彼は何となくツルゲエネフの小説めいたものさえ感じたほどだった。この頃になってこのお嬢さんはやっとかの女の境涯を自覚しだしたのかも知れない。……そんなことをいい気になって空想していると、彼は彼自身までがうっかりその小説の中に引きずり込まれて行きそうで不安になった。
 彼はもっとここに居てみようか、それとも出て行ってしまおうかと暫《しばら》く躊躇《ちゅうちょ》していた。鸚鵡は相変らず人間の声を真似していた。それをいくら聴いていても、彼にはその言葉がすこしも分らなかった。それが彼にはなんだか彼の心の中の混雑を暗示するように思われた。
 彼はいきなり立ちあがると不器用な歩き方でロッジを出て行った。
 ロッジのそとへ出ると、二台の自転車がそのハンドルとハンドルとを、腕と腕とのようにからみあわせながら、奇妙な恰好《かっこう》で、そこの草の上に倒れているのを彼は見た。
 そのとき彼の背後からお嬢さんの高らかな笑い声が聞えてきた。
 彼はそれを聞きながら、自分の体の中にいきなり悪い音楽のようなものが湧《わ》き上ってくるのを感じた。
 悪い音楽。たしかにそうだ。彼を受持っているすこし頭の悪い天使がときどき調子はずれのギタルを弾《ひ》きだすのにちがいない。
 彼は自分の受持の天使の頭の悪さにはいつも閉口していた。彼の天使は彼に一度も正確にカルタの札を分配してくれたことがないのだ。
 或る晩のことであった。
 彼は彼女の家から彼のホテルへのまっ暗な小径《こみち》を、なんだか得体の知れない空虚な気持を持てあましながら帰りつつあった。
 その時前方の暗やみの中から一組の若い西洋人達が近づいてくるのを彼は認めた。
 男の方は懐中電気でもって足もとを照らしていた。そしてときどきその電気のひかりを女の顔の上にあてた。するとそのきらきら光る小さな円の中に若い女の顔がまぶしそうに浮び出た。
 それを見るためには、その女が彼よりずっと脊が高かったので、彼はほとんど見上げるようにしなければならなかった。そういう姿勢で見ると、若い女の顔はいかにも神神《こうごう》しく思われた。
 一瞬間の後、男は再び懐中電気をまっ暗な足もとに落した。
 彼は彼|等《ら》とすれちがいながら、彼等の腕と腕が頭文字《かしらもじ》のようにからみあっているのを発見した。それから彼はその暗やみの中に一人きりに取残されながら、なんだか気味のわるいくらいに亢奮《こうふん》しだした。彼は死にたいような気にさえなった。
 そういう気持は悪い音楽を聞いたあとの感動に非常に似ていた。

 そういう音楽的なへんな亢奮をしきりに振り落そうとして、彼はその朝もそこら中をむちゃくちゃに歩き廻った。そのうちに彼は一つの見知らない小径に出た。
 そこいらは一度も来たことのないせいか、町から非常に遠く離れてしまったかのように思われた。
 そのとき彼はふと自分の名前を呼ばれたような気がした。あたりを見廻してみたが、それらしいものは見えなかった。おかしいなと思っていると、また彼の名前を呼ぶものがあった。今度はややはっきり聞えたのでその声のした方を振り向いてみると、そこには彼のいる小径から三尺ばかり高まった草叢《くさむら》があり、その向うに一人の男がカンバスに向っているのが見えるのだ。その男の顔を見ると彼は一人の友人を思い出した。
 彼はやっとこさその上に這《は》い上って、その友人のそばへ近よって行った。が、その友人は、彼にはべつに何にも話しかけようとせずに、そのまま熱心にカンバスに向っていた。彼も話しかけない方がいいのだろうと思った。そうしてそこへ腰を下ろしたまま黙ってその描きかけの絵を見まもっていた。彼はときどきその絵のモチイフになっている風景をそのあたりに捜したりした。しかしそれらしい風景はどうしても捜しあてることが出来なかった。なにしろその画布の上には、唯《ただ》、さまざまな色をした魚のようなものや小鳥のようなものや花のようなものが入り混っているだけだったから。
 しばらくその奇妙な絵に見入っていたが、やがて彼はそっと立ちあがった。すると立ちあがりつつある彼を見上げながら、友人は言った。
「まあ、いいじゃないか。僕は今日《きょう》東京へ帰るんだよ」
「今日帰る? だって、まだその絵、出来てないんじゃないの?」
「出来てないよ。だが僕はもう帰らなければならないんだ」
「どうしてさ」
 友人はそれに答えるかわりに再び自分の絵の上に眼を落した。しばらくその一部分に彼の眼は強く吸いつけられているかのようであった。

        ※[#アステリズム、1−12−94]

 彼はひとり先きにホテルに帰って、昼食を共にしようと約束をしたさっきの友人の来るのを客間で待っていた。
 彼は客間の窓から顔を出して中庭に咲いている向日葵《ひまわり》の花をぼんやり眺《なが》めていた。それは西洋人よりも脊高く伸びていた。
 ホテルの裏のテニス・コオトからはまるで三鞭酒《シャンパン》を抜くようなラケットの音が愉快そうに聞えてくるのである。
 彼は突然立上った。そして窓ぎわの卓子の前に坐り直した。それから彼はペンを取りあげた。しかしその上にはあいにく一枚の紙もなかったので、彼はそこに備え付けの大きな吸取紙の上に不恰好《ぶかっこう》な字をいくつもにじませて行った。
[#ここから3字下げ]
ホテルは鸚鵡《おうむ》
鸚鵡の耳からジュリエットが顔を出す
しかしロミオは居りません
ロミオはテニスをしているのでしょう
鸚鵡が口をあけたら
黒ん坊がまる見えになった
[#ここで字下げ終わり]

 彼はもう一度それを読み返そうとしたが、すっかりインクがにじんでしまっていて何を書いたのか少しも分らなくなってしまっていた。
 それでもやはり彼は、約束の時間よりもすこし遅れてやってきた友人がひょいとそれを覗《のぞ》き込んだ時には、それを裏返えしにした。
「隠さなくてもいいじゃないか?」
「これは何でもないんだ」
「ちゃんと知ってるよ」
「何をさ」
「一昨日、いいところを見ちゃったから」
「一昨日だって? なんだ、あれか」
「だから今日は君が奢《おご》るんだよ」
「あれは、君、そんなもんじゃないよ」
 あれはただ浅間山の麓《ふもと》まで自動車で彼女たちのお供をしただけだ。「たったそれだけ」だったのだ。――彼は再びその時の夫人の言葉を思い出した。そしてひとりで顔を赧《あか》くした。
 それから彼等は食堂へはいって行った。それを機会に彼は話題を換えようとした。
「ときに君の絵はどうしたい?」
「僕の絵? あれはあのままだ」
「惜しいじゃないか?」
「どうも仕方がないんだ。ここは風景は上等だが、描きにくくて困るね。去年も僕は描きに来たんだが駄目さ。空気があんまり良すぎるんだね。どんなに遠くの木の葉でも、一枚一枚はっきり見えてしまうんだ。それでどうにもならなくなるんだよ」
「ふん、そんなものかね……」
 彼はスウプを匙《さじ》ですくいながら、思わずその手を休めて、自分自身のことを考えた。ことによると、自分と彼女との関係がちっとも思うように進行しないのは、ひとつはここの空気があんまり良すぎて、どんなに小さな心理までも互にはっきり見えてしまうからかも知れない。彼はそれを信じようとさえした。
 そして彼は考えた。描きかけの風景画をたずさえてこれから東京へ帰ろうとしているこの友人と同様に、自分もまた数日したら、それも恐らく描きかけのままになるであろう自分の「ルウベンスの偽画」をたずさえて再びここを立ち去るより他《ほか》はないであろうか?

 午後になって、その友人を町はずれまで見送ってから、彼はひとりで彼女の家を訪れた。
 丁度ふたりでお茶を飲んでいると
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