ないのと彼女に応《こた》えた。それを聞くと彼は無造作に屋根の上に出て行った。彼女も笑いながら彼について来た。そして二人が屋根の端まで歩いて行った時、彼はすこし不安になりだした。それは屋根のわずかな傾斜から身体の不安定が微妙に感じられるせいばかりではなかった。
 その屋根の端で彼はふと彼女の手とその指環《ゆびわ》を見たのである。そして彼女が何でもなかったのに滑りそうな真似《まね》をして指環が彼の指を痛くするほど、彼の手を強く掴《つか》むかも知れないと空想した。すると彼はへんに不安になった。そして急に彼は屋根のわずかな傾斜を鋭く感じだした。
「もう行きましょう」そう彼女が言った時、彼は思わずほっとした。彼女は先に一人でバルコニイに上ってしまった。彼もそのあとから上ろうとして、バルコニイで夫人と彼女の話しあっているのを聞いた。
「何か見えて?」
「ええ、私達の運転手が、下でブランコに乗ってるのを見ちゃったのよ」
「それだけだったの?」
 皿とスプウンの音が聞えてきた。彼はひとりで顔を赧くしながら、バルコニイへ上って行った。

 夫人の「それだけだったの?」を彼はお茶をのんでいる間や、帰途の自動車の中で、しきりに思い出した。その声には夫人の無邪気な笑いがふくまれているようでもあった。また、やさしい皮肉のようでもあった。それからまた、何んでも無いようでもあった。……

        ※[#アステリズム、1−12−94]

 翌日、彼が彼女たちの家を訪問すると、二人とも他家《よそ》へ、お茶に招《よ》ばれていて留守だった。
 彼はひとりで「巨人の椅子」に登ってみようとした。が、すぐ、それもつまらない気がして町へ引きかえした。そして本町通りをぶらぶらしていた。すると彼は、彼の行手に一人の見おぼえのあるお嬢さんが歩いているのに気がついた。それは毎年この避暑地に来る或る有名な男爵《だんしゃく》のお嬢さんであった。
 去年なども、彼はよく峠道や森の中でこのお嬢さんが馬に乗っているのに出逢《であ》った。そういう時いつも彼女のまわりには五六人の混血児らしい青年たちがむらがっているのであった。一しょに馬や自転車などを走らせながら。
 彼もこのお嬢さんを刺青《いれずみ》をした蝶《ちょう》のように美しいと思っていた。しかし、それだけのことで、彼はむろんこのお嬢さんのことなどそう気にとめてもいなかった。が、ただ彼女を取りまいているそういう混血児たちは何とはなしに不愉快だった。それは軽い嫉妬《しっと》のようなものであるかも知れないが、それくらいの関心は彼もこのお嬢さんに持っていたと言ってもいいのである。

 それで彼は何の気もなくそのお嬢さんのあとから歩いて行ったが、そのうち向うからちらほらとやってくる人人の中に、ふと一人の青年を認めた。それは去年の夏、ずっと彼女のそばに附添ってテニスやダンスの相手をしていた混血児らしい青年であった。彼はそれを見るとすこし顔をしかめながら出来るだけ早くこの場を離れてしまおうと思った。その時、彼はまことに思いがけないことを発見した。というのは、そのお嬢さんとその青年とは互にすこしも気づかぬように装いながら、そのまますれちがってしまったからである。唯《ただ》、そのすれちがおうとした瞬間、その青年の顔は悪い硝子を透して見るように歪《ゆが》んだ。それからこっそりとお嬢さんの方をふり向いた。その顔にはいかにも苦《にが》にがしいような表情が浮んでいた。
 このエピソオドは彼を妙に感動させた。彼はその意地悪そうなお嬢さんに一種の異常な魅力のようなものをさえ感じた。勿論《もちろん》、彼はその混血児の側にはすこしも同情する気になれなかった。
 その晩はベッドへ横になってからも、何度も同じところへ飛んでくる一匹の蛾《が》のように、そのお嬢さんの姿がうるさいくらいに彼のつぶった眼の中に現れたり消えたりするのであった。彼はそれを払い退《の》けるために彼の「ルウベンスの偽画」を思い浮べようとした。が、それが前者に比べるとまるで変色してしまった古い複製のようにしか見えないことが、一そう彼を苦しめた。

        ※[#アステリズム、1−12−94]

 しかし翌朝になってみると、そのふしぎな魅力は夜の蛾のようにもう何処《どこ》かへ姿を消してしまっていた。そうして彼は何となく爽《さわ》やかな気がした。
 午前中、彼は長いこと散歩をした。そして、とあるロッジの中で冷たい牛乳を飲みながら、しばらく休むことにした。彼はこんなに爽やかな気分の中でなら、夫人たちに昨日からのエピソオドを打明けても少しもこだわるようなことはないだろうと思ったほどであった。
 それは町からやや離れた小さな落葉松《からまつ》の林の中にあった。
 木のテエブルに頬杖《ほおづえ》をついて
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