足音が聞えたとき、彼は何を思ったのか自分でも分らずに、小径のそばの草叢《くさむら》の中に身をかくした。彼はその隠れ場から一人の西洋人が大股《おおまた》にそして快活そうに歩き過ぎるのを見ていた。

 彼女はまだ庭園の中にいた。彼女はさっき振りかえったときに彼が自分の後から来るのを見たのである。しかし彼女は立止って彼を待とうとはしなかった。なぜかそうすることに羞《はずか》しさを感じた。そして彼女はたえず彼の眼が遠くから自分の脊中に向けられているのをすこしむず痒《がゆ》く感じていた。彼女はその脊中で木の葉の蔭と日向《ひなた》とが美しく混り合いながら絶えず変化していることを想像した。
 彼女は庭園の中で彼を待っていた。しかし彼はなかなか這入《はい》って来なかった。彼が何をぐずぐずしているのか分るような気がした。数分後、彼女はやっと門を這入って来る彼を見たのであった。
 彼はばかに元気よく帽子を取った。それにつり込まれて彼女までが、愛らしい、おどけた微笑を浮べたほどであった。そして彼女は彼と話しはじめるが早いか、彼が肉体を恢復《かいふく》したすべての人のように、みょうに新鮮な感受性を持っているのを見のがさなかった。
「お病気はもういいの?」
「ええ、すっかりいいんです」
 彼はそう答えながら彼女の顔をまぶしそうに見つめた。

 彼女の顔はクラシックの美しさを持っていた。その薔薇の皮膚はすこし重たそうであった。そうして笑う時はそこにただ笑いが漂うようであった。彼はいつもこっそりと彼女を「ルウベンスの偽画」と呼んでいた。
 まぶしそうに彼女を見つめた時、彼はそれをじつに新鮮に感じた。いままでに感じたことのないものが感じられて来るように思った。そうして彼は彼女の歯ばかりを見た。腰ばかりを見た。その間に、彼は病気のことは少しも話そうとはしなかった。そういう現実の煩《うる》さかったことを思い出すことは何の価値もないように彼は思っていた。そのかわりに彼は、真白なクッションのある黒い自動車の中に黄いろい帽子をかぶった娘の乗っていたのが、西洋の小説のように美しかったことなどを好んで話すのだった。そしてその娘の香《にお》いがまだ残っていた美しい自動車に乗ってきたのだと愉快そうに言った。
 しかし彼はその自動車の中に残っていた唾のことは言わないでしまった。そうした方がいいと思ったのだった。が、それを言わないでいると、その唾が花弁のように感じられたあの時の快感がへんに鮮かにいつまでも彼の中に残っていそうな気がするのだ。こいつはいけないと思った。その時から少しずつ彼は吃《ども》るように見えた。そして彼はもう不器用にしか話せなかった。一方、そういう彼を彼女は持てあますのだった。そこでしかたがなしに彼女は言った。
「家へはいりません?」
「ええ」
 しかし二人はもっと庭園の中にいたかった。けれども今の言葉がおかしなものになってしまいそうなので、二人はやっと家の中へはいろうとしたのであった。
 そのとき二人は、露台の上からあたかも天使のように、彼等の方を見下ろしている彼女の母に気がついた。二人は思わず顔を赧《あか》らめながら、それをまぶしそうに見上げた。

        ※[#アステリズム、1−12−94]

 翌日、彼女たちはドライヴに彼を誘った。
 自動車は夏の末近い寂しい高原の中を快い音を立てながら走った。
 三人は自動車の中ではほとんど喋舌らないでいた。しかし風景の変化の中に三人ともほとんど同様の快さを感じていたので、それは快い沈黙であった。ときどきかすかな声がその沈黙を破った。が、それはすぐまた元の深い沈黙の中に吸いこまれてしまうので誰も何も言わなかったのではないかと思われるほどのものであった。
「まあ、あの小さい雲……(夫人の指に沿ってずっと目を持ってゆくと、そこに、一つの赤い屋根の上に、ちょうど貝殻のような雲が浮んでいた)ずいぶん可愛らしいじゃないの」
 それから後は浅間山の麓のグリイン・ホテルに着くまで、ずっと夫人の引きしまった指と彼女のふっくらした指をかわるがわる眺《なが》めていた。沈黙がそれを彼に許した。

 ホテルはからっぽだった。もう客がみんな引上げてしまったので今日あたり閉じようと思っていたのだ、とボオイが言っていた。
 バルコニイに出て行った彼等は、季節の去った跡のなんとない醜さをまのあたりの風景に感じずにはいられなかった。ただ浅間山の麓だけが光沢のよいスロオプを滑《なめ》らかに描いていた。
 バルコニイの下に平らな屋根があり、低い欄干をまたぐと、すぐその屋根の上へ出られそうであった。そんなに屋根が平らで、そんなに欄干が低いのを見たとき、彼女が言った。
「ちょっとあの上を歩いてみたいようね」
 夫人は、彼と一しょに下りてもらえばいいじゃ
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