させようと思った。が、御物忌《おものいみ》やら何やらでなかなかそれを殿に御目にかける事が出来ないでいるらしかった。一方、頭の君は頭の君で、こちらの返事のいつまでもないのをしきりに怨《うら》んで入らっしゃるらしかった。仲に立って、道綱は一人で殆ど困っていた。ようやく殿の御返事のあったのを見ると、「おれがどうしてそんな事をまだ許すものか。そのうち考えて置こう、と右馬頭には言って遣っただけだ。返事はお前が好いように取做《とりな》せ。そんな姫のいる事さえ誰もまだ知ってはいない位だのに、若《も》しそんな右馬頭でもそちらに通ったりしてみろ、お前がおかしく思われてもしようがないぞ」といかにも心外な事らしく仰ゃって来られた。そんな事を言われれば、こちらだって腹が立つ。その腹いせのように、私はつい大人げなく頭の君にも「ちょっと殿の許に使いを遣りましたら、まるで唐土《もろこし》にでも行ったように長いことかかって、漸《ようや》く御返事をいただいて参りました。しかしそれを見ますと、ますます私には分かり兼ねる事ばかりなので、何んとも返事のいたしようがございませぬ」と手きびしい返事を書いてやった。そんな風にいつになく腹を立てた後で、ふと気がつくと、なんでもない事だろうと思っているうちに、急にすべての事がなんだか思いもよらない方へ往ってしまいそうな危惧《きぐ》が、其処には感じられないでもなかった。私はそれを感ずると、何がなし心の引き締まるような気もちがした。――そんなこちらの冷めたい返事にも、私の惧《おそ》れたとおり、頭の君はすこしもお懲りにならず、それどころか反って熱心に同じような御文をお寄こしになり出したのだった。もうそうなると、こちらではなるべくそれに取り合わないようにしているよりしようがなかった。
ところが、三月になり、或日の昼頃「右馬頭様がお出になりました」と言うことだった。突然だったのでびっくりしたが、私はすぐざわめき立った女房たちに「まあ静かにしてお出《いで》」とたしなめ、それを取次いだものには「好いから、いま、私達は留守だとお答えなさい」と言いつけた。
が、そうこうしているうちに、一人の品のいい青年が中庭からお這入りになっていらしって、目の疎《あら》い籬《まがき》の前にお立ち止まりになられたのが簾《みす》ごしに認められた。練衣《ねりぞ》を下に着て、柔かそうな直衣《のうし》をふんわりと掛け、太刀《たち》を佩《は》いたまま、紅色の扇のすこし乱れたのを手にもてあそんでいらしったが、丁度風が立って、その冠の纓《えい》が心もち吹き上げられたのを、そのままになさりながら、じっとお立ちになって入らっしゃる様子はまるで絵に描かれたようだった。
「まあ綺麗な方がいらっしゃること」奥の女房たちは、まだなんにも知らずに、裳《も》なども打ち解けた姿のまま、そんな事を囁《ささや》き合って、簾《みす》ごしにその青年を見ようとしているらしかった。折から、その青年の纓《えい》を吹き上げていた風が、其処まで届いて、急にその簾をうちそとへ吹《ふ》き煽《あお》ったものだから、簾のかげにいた女房どもはあれよと言って、それをおさえようとして騒ぎ出していた。恐らくその青年に、そのしどけない姿を残らず見られたろうと思って、私は死ぬほど羞《はず》かしい思いをしていた。
ゆうべ夜更けて帰ってきた道綱がまだ寐《ね》ていたので、それを起しに往っている間の、それは出来事だった。道綱はやっとそのとき起きてきて、「生憎《あいにく》きょうはみんな留守でして――」などと頭《かん》の君《きみ》に言っていた。風がひどく吹いていた日だったので、先刻から南面の蔀《しとみ》をすっかり下ろさせてあったので、それが丁度いい口実になった。
頭の君はそれでも強いて縁に上がられて、「まあ、円座《わろうだ》でも拝借して、しばらくここに坐らせて下さい」など言いながら、其処で道綱を相手にしばらく物語られていたが、「きょうは日が好かったので、ほんの真似事にでもこうして居初《いそ》めさせていただきました。これだけで帰るのはいかにも残念ですが――」と、すこし打《う》ち萎《しお》れた様子で、お帰りになって往かれた。
「思ったよりも品の好さそうな御方だこと」そんな事を思いながら、私は簾ごしにその後姿をいつまでも見送っていた。
それから二日程してから、頭の君は私のところへ留守中にお伺いした詫《わ》びなどを言いがてら、「本当にあなた様にだけでもお目にかかって、わたくしの真実な気もちをお訴えしたいのですが、自分の老いしゃがれた声などどうしてお聞かせ出来よう、などといつも仰せちれて私をお避けになるのは、それはほんの口実で、まだ私をお許し下さらぬからだと思われます」などと怨《うら》んでよこし「まあ、それはともかく、今夜あたりまた助《すけ》にだけでもお目にかかりに参りましょう」と言ってきた。暮れ方、頭の君はお言葉どおりお見えになられた。しようがないので、ともかくも蔀を二間ほど押し上げ、縁に灯をともして、庇《ひさし》の間にお通しさせる事にした。道綱が出て往って、「さあ、どうぞ」と言って、妻戸をあけ、「こちらから――」と促すと、頭の君はそちらへちょっと歩みかけられたが、急に思い返したように後退《あとず》さって、「お母あ様にここへはいるお許しを願って下さいませんか」と小声で押問答していた。やがて道綱が私のところに来て、それを取り次いだので「そんな端近くでも構いませんでしたら――」と返事をさせた。頭の君はその返事を聞くと、少しお笑いになりながら、もの静かに衣《きぬ》ずれの音をさせて、妻戸からおはいりになって来られた。
ときおり向うの庇の間から、頭の君と道綱とが小声で取交わしている話し声に雑《まじ》って、笏《しゃく》に扇の打ちあたる音が微かに聞えてくる。私どものいる簾の中は、物音ひとつ立てず、しいんと静まり返っていた。それから稍《やや》あって、頭の君はまた道綱に取り次がせて、私に「こないだはお目にかかれずに帰りましたので、又お伺いいたしました」と言ってよこした。そうやって何度も間に立たされている道綱が「早く何んとか言って上げませんか」としきりに私を責めるので、私はしょうことなくて几帳《きちょう》の方へ少しいざり寄っては見たものの、勿論、私の方から何も言い出すことはないので、そのまま無言でいた。頭の君はいざとなって、私に何んと言ったらよいのか、当惑なすって入らっしゃるような様子だった。なお、そのままにしていたら二人の間がいよいよ気づまりになって往きそうだったので、自分がそこにいる事を頭の君が或はまだお気づきにならないのかも知れぬと思って自分がそうしたようにお取りになればいいと、私は少し咳払いをした。ようやっと頭の君は口を切った。
志賀の里から誰にも知らさないようにしてこっそりと私の許《もと》に引きとられた少女の事をひそかに聞き、その物語めいた身の上に何んと云うこともなしに心を惹《ひ》かれているうちに、だんだんその未知の少女の事を心に沁《し》みて思いつめるようになったなりゆきを、最初は妙に取り繕ったような声だったが、次第に熱を帯びた声になって、頭の君は語り出されたのであった。私はそういう頭の君の話をはじめから仕舞いまで、それに思いがけない好意さえもちながら、黙って聞いていたが、漸《ようや》くそれを聞《き》き畢《おわ》り、こんどは自分が何か言わなければならない番になったけれど、やはり何んとしても私は「何を申そうにもまだ姫は大へん穉《おさな》いので、そう仰《おっし》ゃられるとまるで夢みたいな気がいたす程ですから――」とお答えしているより外はなかった。
それは雨が乱れがちに降っている暮れがただった。あたり一めんを掩《おお》うように蛙の声が啼《な》き渡《わた》っていた。そのまま夜が更けてゆくようなので、さっきから庇の間に坐られたぎり、一向お帰りなさろうとする様子も見えない頭の君に向い、「こんなに蛙が啼いて、こうして奥の方にいる私どもでさえ何んだか心細い位ですのに。あなた様も早くお帰りになっては」と私は半ばいたわるように、半ばたしなめるように言った。
頭の君の方では、そういう私の言葉をも反って身に沁むようにしていて、只「そういうお心細いような折こそ、どうぞこれからは私を頼りになすって戴きたいものです。そんなものなんぞ、私は少しもこわがりはいたしませんから――」と応《いら》えるばかりで、いつまで立ってもお帰りなさろうとはしないように見えた。だんだん夜も更けて来るようだし、皆の手前もあるので私は一人で困ってしまっていたが、それぎり物も言わずにいると、とうとう頭の君はお帰りなさるらしい気配を見せて、「助《すけ》の君《きみ》の御祓《おはらい》ももう間近かでお忙しいようですから、何か御用がおありになれば代りに私にお言いつけなすって下さい。これからは度々お伺いいたす積りです」と言い残しながら、漸《や》っとお立ち上がりになった。
私は何気なしにその後姿を見ようと思って、ふと几帳の垂れをかき分けながらかいま見をすると、いま、頭の君のいらしった縁の灯はもうさっきから消えていたらしかった。私の座の近くにはまだ灯がともっていたものだから、それには少しも気がつかずにいたのである。それではさっきから闇の中で黙って頭の君は私の影を御覧になっていたのかと驚いて、私はあまりと言えばあまりな頭の君を「まあ、お人の悪い。灯のお消えになっているのを仰ゃりもしないで――」と鋭くたしなめるように言い放った。頭の君はしかし、それが聞えなかったようなふりをなすって、黙ったまま立ち上がって往かれた。
私はその跡、自分の近くの灯をそむけて、薄暗いなかにひとりそのままじっと目をつむっていた。そして私はその目のうちらに、自分自身のこうしている姿を、ついいましがた頭の君に偸見《ぬすみみ》せられていたでもあろうような影として、何んと云うこともなく蘇《よみがえ》らせていた。それは半ば老いて醜く、半ばまだ何処やらに若いときの美しさを残していた。そうしているうちに、私がだんだん何とも云えず不安な、悔やしいような心もちに駈りやられていったのは、そういう自分の影がいつまでも自分の裡《うち》に消えずにいるためばかりではなかった。それはさっきあんなに狼狽《ろうばい》を見せて頭の君をたしなめたときの、自分自身を裏切った、自分の嗄《しゃが》れた声がまだそこいらにそのままそっくりと漂っているような感じのし出して来たためだった。
私はそういう一見何んでもないように見える事のために、思いがけないほど自分の心が揺らぎ出しているのを、しょうことなく揺らぐがままにさせていた。……
その三
頭《かん》の君《きみ》はそんな事があってからも、私がそれをそれほど苦にしていようとは夢にもお知りなさらない風に、相変らず、何かと道綱のところに来られては、撫子の事で同じようなことのみ道綱を仲にして私に言ってお寄こしになっていた。
私も、さりげない風をして、「姫はまだ小さいから――」と同じような返事ばかり繰り返させていた。それに丁度道綱がこんどの賀茂祭の御祓《おはらい》には使者に立つ事になっていたので、何かとその支度をしてやらなければならないので、私はそれをいい事にその方にばかり心を向け出していた。自然、撫子の事やなんぞで何んのかのと私をお苦しめになられる、頭の君の上からは心をそらせがちだった。――頭の君も頭の君で、毎日のように、役所の往き帰りに道綱のところに立ち寄られては、何かと先輩らしく世話を焼きながら、御自身は御祓の果てる日を空しく待たれているらしかった。
ところが或日、道綱は、往来で犬の死骸を見かけたと言って出先きから戻って来た。そうやって、その身の穢《けが》れた上は、御祓の使者は辞さなければならなかった。一方、道綱がそうして忌《いみ》にこもり出すと、頭の君はこんどは又役所の用事にかこつけては、前よりも一層繁々とお立ち寄りになり、いつまでも上がり込まれて、あれから頭の君がいくら入らしってもお会いしない事にして
前へ
次へ
全7ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング