に込み上げて来た。その一方、何とも云えず悔やしいような気もちもしないではいられなかった。……
 そうやってその消息を手から離しもしないで、しばらく空けたようになっていた私は、やっと気を変えて、ともかくも早速殿に何んとか返事を差し上げなければならないと思った。が、何を書いても、誰が誰に向って書いても同じような弁疏《いいわけ》めいた事しか書けそうもなかった。そんな事位でこちらの心をお疑ぐりになるのを反って殿にお怨み申したい――そう自分でありたいと思うような気もちには、しかしどうしても今の私はなれなくなっていた。自分の心が既に殿からはこんなにも離れてしまっているのかと思って、私はみずから驚いた位だった。
 私はそのまま悔やしそうに、その殿の手紙の裏に何んと云うこともなしに散らし書きをし出していた。こういう今の自分の何もかもを引括《ひっくる》めて自嘲したいような気もちにしかなれずに。――

  いまさらにいかなる駒かなつくべき
    すさめぬ草とのがれにし身を

 私は殿には返事を差し上げる代りに、そんな歌だけ書いてお送りする事にした。それを道綱に持たせてやった後も、しかし私はいつまでも自分の裡に何物に対するともつかない、果てしない不満のようなものが残っているのをどうしようもなかった。
 頭の君はこの頃も相変らず、何かと言っては道綱を呼びに寄こしたり、又遠慮がちに道綱のところに御自身でも入らしったりなすっているらしい。頭《かん》の君《きみ》はこんどの事は何も御存知ないのだから、別にかれこれ言うこともないので、私はそのまま勝手にさせておいた。そのうち五月になった。時鳥《ほととぎす》がいつになくよく啼《な》いた。昼間からこんなに啼くことも珍らしい。厠《かわや》にはいっていて、ほととぎすの啼き声を聞くのは悪い前兆だといって昔から人々が忌むらしいが、私は屡《しばしば》それをすら空《うつ》けたように聞くがままになっていた。……

 いつか世の中は長雨《ながさめ》にはいり出していた。十日たっても、二十日たっても、それは小止《おや》みもなしに降りつづいていた。
 或夜など、雨のためにひさしく音信《おとずれ》のなかった頭の君から突然道綱の許《もと》に「雨が小止《おや》みになったら、ちょっと入らしって下さい、是非お会いしたい事がありますから。どうぞお母あ様には、自分の宿世《すくせ》が思い知
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