残すような事もあまりあるまいと思われたが、只、こうしていろいろな夢をいだいて私のところにやって来たでもあろう撫子がまあどんなに胸の潰《つぶ》れるような思いをする事だろうと、その事のみが気づかわれるのだった。
もう梅雨《つゆ》ちかいそんな或日、突然殿があの祭の日からはじめてお見えになられた。私が空《うつ》けたような顔ばかりして、いつまでも物を言わずにいると、「どうして何も言わないのだ」と、殿は私の機嫌をとるように言い出された。「何も言うことがございませんので――」と私が思わず生返事をすると、殿は急にこらえ兼ねられたようにお声を荒らげて、「どうしてお前は、来てくれない、憎い、悔やしいと、おれを打つなり抓《つね》るなりしないのだ」などとお言い続けになった。私はしばらく打ち伏したまま無言で聞いていたが、稍《やや》たってから、やっと顔をもたげ、「わたくしの方で実は申し上げたかった事を、そのように何もかも御自分で仰《おっし》ゃられてしまいましたので、もう私の申し上げたい事はなくなりました」と言いながら、私はいつか自分がいかにも気味よげにほほ笑《え》みだしているのを感じていた。
その日はそうやって一日中、二人共、むっつりとし合ったままで対《むか》い合《あ》っていた。殿は撫子を呼びにやられたが、撫子までがきょうは気分が悪いと言ってとうとう出て来なかった。殿はますます苦々しげな御顔をなすって入らしったが、それでも何かがお心残りのようにすぐにはお立ちにもならず、日暮れ近く、漸《ようや》くお帰りになって往かれた。
しばらく此日記を附けずにいた。みずから進んでそれを附けたいような気にもならず、又、それを附けずにいることが気にもならなかったので、そのまま放っておいたのである。もともと、ながらく途絶えていた此日記を再び何んと云うこともなしにこの頃附けはじめていたのは、前のように自分で自分を何んとかしなければならないと言った、切迫した気持なんぞからではなかった。只、あれほど自分の事だけでぎりぎり一ぱいになっていた私が、こうしてあの方に棄てられた女の子を養うような余裕のある心もちにまでなり出したのが自分にも不思議な位で、それで筆をとり出したのだが、矢っ張、此日記を私に書かせたものは、あの方への、又、自分自身への一種の意地であったかも知れぬ。しかし、そういう気もちもだんだん無くなりかかってい
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