れるようになった。それもこの少女のために気が紛《まぎ》れるのかと思って、私は毎日のようにその少女を相手に歌を詠んだり、手習をさせたりしていた。
 殿もこの頃は物忌がちなので、お泊りになることは少ないが、よく昼間などお見えになる。そんな昼なんぞ、もう自分の老いかかった姿を見られるのは羞《はずか》しいようだが、どうにも為様《しよう》がないので、少女を自分の側から離さぬようにして物語のお相手などしているが、いつも派手好みで、匂うような桜がさねの、綾模様《あやもよう》のこぼれそうな位なのを着付けていらっしゃる殿に対《むか》っていると、いまさらのように自分の打ちとけて、萎《しお》たれたようななりをした姿がかえり見られ、可哀いさかりのこの撫子のために、こうしてわざわざ入らっしゃればこそ、さぞ自分は殿には見とうもなく思われたろうと悔やまれがちだった。
 葵祭《あおいまつり》が近づいた。その日になると、私は若い人たちを連れて、忍んで出掛けていった。暫く祭の行列を見物しているうちに、なかでも一きわ花やかに先払いさせながらやってくる御車があったので、どなたかしらと思って注意をして見ていると、その前駆の者共のなかに幾人も見馴れた顔があった。「矢っ張、殿だ」と思いながらも、自分達の車のまわりで「あれはどなた様でしょうか……いままでの中でも一番御立派なようだ……」などと人々がざわめいているのをそれとなく耳に入れていると、こうして忍んだ姿で来ている自分達が一層みすぼらしいような気がされてきてならなかった。簾をすっかり捲き上げられたまま、きらびやかにお通り過ぎになって往かれたが、車上の人はまぎれようもなく、あの方だった。――が、まあ何ということか、あの方はすぐ目の前をお通り過ぎになられながら、その瞬間私達の車をお認めになられたかと思うと、ふいと扇で顔をお隠しになられて、そのまま其処を通り過ぎて往かれてしまったのだった。
 車の奥ぶかくに自分と一しょにいた撫子にもそれは気がついたにちがいなかった。私がそれについては何んとも言わずに黙っていると、少女も心もち蒼いような顔をしながら、しかし車上の殿なんぞは見もしなかったような風をしていた。その少し蒼ざめた顔色は、家に帰るまで、直らなかった……
 夕方、そんな事が知《し》らず識《し》らずの裡《うち》に帰りを早めた私達の車よりか、ずっと遅くなってから、道綱
前へ 次へ
全33ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング