山から帰って来てからは、もう昔のような私ではなくなりかけているのだ。……
その日もまた、私がそんな考えをとつおいつし出していたところへ、西の京にお住いになって居られるあの方の御妹から御文があった。見れば、まだ私があれからずっと山に籠《こも》っているものとばかりお思いになっていらしって、何くれと物哀れげに仰《おっし》ゃって「どうしていつまでもまあそんなお淋しいお住いをなすって入らっしゃるのでしょう。そのようなお住いをも一向苦になさらずにお訪ねいたすお方だっておありでしょうに、つれないあの人はこの頃あなた様からもお離《か》れがちだとか。本当にどうして入らっしゃるかと大へん気になって居りますので、ちょっと――」と書いておよこしになった。そこで私はつい今もいま考えていたままに「山の住いはずっと秋までいたそうと思って居りましたのに、又こうして心にもない里住いをいたすようになりました。――仮りに山に入っても、私のような意気地のない者はまことに中途半端なものでございますこと。だが私も、今度という今度ばかりは本当に苦しい思いをいたしました。しかしそのような苦しい思いも、みんなあの方が私にお与え下さるものとおもえば反っていとしくて、或時などは自分から好んでそれを求めたほどでございました。どうぞこういう言葉を私がただ奇矯《ききょう》な事を申すようにお思いなさらないで下さいまし。そういうおりおりの空《うつ》けた私にはどうかいたすと、そんな苦しみが無ければないで、反って一層はかなく、殆どわが身があるかないかになってしまいはせぬかと思われる程なのでございますから。――只、それほどまで私にとっては命の糧にも等しいほどな、その苦しみのお値打《ねうち》にも、それを私にお与え下さっている御当人は少しもお気づきになって入らっしゃいませんようなのですもの。私はそれをば此頃あの方のために何んだかお気の毒に思っております位。――本当にこんな人並ならぬ気もちさえいたして居りますほどの私の心のうちは、誰やらの申しました『深山《みやま》がくれの草』とばかり思えて、いくら繁くとも誰方もお認めなさいますまいと思って居ります」と書いて送った。
そう、本当に私はもう昔みたいにあの方のためになんぞ苦しむまいとは思わないが好いのだ。いくらあの方からお離れしようとも、もう自分がお離れできない事はよく私にも分かっている筈だろうから。まあ、こう云ったこの頃の私の切ない心もちと云ったら、あの根を絶たれて、もうすべての葉は枯れ出しながら、しかもまだそのか細い枝は以前のままに他の木の幹にからみついたままでいる、あの蔓草《つるくさ》に似ているとでも言えようかしら。
その八
それからほどもない或夜の事、思いがけずあの方がひょっくりお見えになった。そうしてこの間の晩の事をしきりにお言いわけなすって、「今宵こそと思ったから、忌違《いみたが》えに皆が出かけると云うのを出して置いて、おれだけこちらへ急いでやって来た」などと仰ゃられていた。しかし私には、そう云うあの方のお心の中がすっかり見え透いてでもいるかのように、あんまり言いわけがましく仰ゃるのを反っておかしい位に思いながら、あの方をいかにも何気なさそうにおもてなしをしていた。
そんな自分を自分でもずいぶん昔とは変ったなと思っていたが、流石《さすが》にあの方にもそう云った今の私がまるで別人のようにお見えになるらしく、それが何時も屈託なさそうにして入らっしゃるあの方までを、いくらか不安におさせしているらしかった。しかし、明け方になると、それをただその事の所為《せい》にでもなさるかのように、「勝手の分からぬ所に参っている者共はどうしているだろうな」と仰ゃりながら、何か気がかりなように、お帰りになって往かれた。
それからまた数日の後だった。今度伊勢守になられた私の父は、また近いうちに任国へお下りにならなければならなかった。それでしばらくでも御一緒に暮らしたいと思って、あの方にはお知らせもせずに、私は父と共に或物静かな家に移った。そんなにまでしたのに、それから二三日した或|午《ひる》頃、急に南面の方が物騒がしくなった。「誰だろう、向うの格子を開けたのは」と私の父までも驚いて、皆と一しょに立ち騒いでいると、そこへ突然あの方がおはいりになって入らしった。そうしていきなり私の前に立ちはだかって、いくらか色さえお変えになりながら、傍らにあった香や数珠《ずず》を投げ散らかされ出した。しかし私は身じろぎもせずに、どんな事をなされようとも、じっとこらえながらあの方のなさるがままにさせていた。
そんな心にもない乱暴な事をなさりながら、反ってあの方が私にお苦しめられになっているのが、どうという事もなしに、只、そうやってあの方のなすがままになっているうちに、私には分かって来たのだった。しかし御自分ではそれには一向お気づきなされようともせずに入らっしゃるらしかった。
それから漸《や》っとあの方は御自分にお立ち返りになられたかと思うと、何だってそんな事をなすったのかはよくお分かりにならぬながら、急にいままでの何もかもをほんの一時の御戯れだったとでも云うようになさろうとして、私にいつものような御常談なんぞを言われ出した。私も私で、あの方がかりそめにも私のためにお苦しめられになったなんぞと云う事をあの方にはお分かりにならせぬのが、せめてもの私の思いやりででもあると云ったように、さも何事もなかったようにしていた。しかしあの方はまだ何かがお気になると見え、御常談もいつもほど思うようには仰ゃれずにいらしった。
それからその夜は、あの方は私といつになくお心をこめてお語らいになられ出した。私はといえば、そんな事ももう別に嬉しいとは思わずに、只、何もかもすっかりあの方のなさるがままになっていた。そうしてあくる朝になって、やっと平生のいかにも颯爽《さっそう》としたお姿に立ち返えられながら、お帰りになって往かれようとなすっているあの方の後ろ姿を、突然、胸のしめつけられるような思いで見入りだしているのは、いつか私の番になっていた。……
底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
1988(昭和63)年6月1日初版第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄全集 第2巻」筑摩書房
1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
初出:「改造」
1937(昭和12)年12月号
初収単行本:「かげろふの日記」創元社
1939(昭和14)年6月3日
※底本の親本の筑摩書房版は、創元社版による。
※初出情報は、「堀辰雄全集 第2巻」筑摩書房、1977(昭和52)年8月30日、解題による。
入力:kompass
校正:松永正敏
2004年2月27日作成
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