言われたのだろうと思って、それ以上尋ねるのは止めて、いろいろ慰《なだ》めたり賺《すか》したりしていたが、それから何日たっても、あの方からは音信《おとずれ》さえもなかった。「まさかと思っていたのに、本当にこのままお絶えなさる気なのかしらん」と不安そうに思いながら、それでもまだそれを半ば疑うような気もちで暮らしていると、或日の事、こないだあの方の出て往かれる時に鬢《びん》をお洗いになった※[#「さんずい+甘」、第3水準1−86−60]坏《ゆするつき》の水がそっくりそのままになっているのにふと気がついた。よく見ると、その水の上にはもう一面に塵《ちり》が溜《た》まっていた。「まあ、こんなになるまで――」と私は胸をしめつけられるような心もちで、それに何時までもじっと見入っていた。――そんな事さえも、その日頃にはとかく有りがちなのであった。

 そういう一方に、あの坊《まち》の小路の女のところでは子供が生れるとか言って大騒ぎをしていたらしかったが、その頃からどう云うものか、あの方はあんまりその女のもとへはお出《いで》にならなくなったとか云う噂だった。その女の事を憎い憎いと思いつめていた時分に「いつ
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