降りた。そうして心もちも何だか悪いので、すぐ几帳《きちょう》を隔てて、打ち臥していると、其処へ留守居をしていた者がひょいと寄ってきて「瞿麦《なでしこ》の種をとろうとしましたら、根がすっかり無くなっておりました。それから呉竹も一本倒れました、よく手入れをさせて置きましたのですが――」などと私に言い出した。こんなときに言わずとも好い事をと思って、返事もしずに居ると、睡っていられるのかと思っていたあの方が耳ざとくそれを聞きつけられて、障子ごしにいた道綱に向って「聞いているか。こんな事があるよ。この世を背いて、家を出てまで菩提《ぼだい》を求めようとした人にな、留守居のものが何を言いに来たかと思うと、瞿麦がどうの、呉竹がどうのと、さも大事そうに聞かせているぞ」とお笑いになりながら仰ゃると、あの子も障子の向うでくすくす笑い出していた。それを聞くと、私までもつい一しょになっておかしいような気もちになりかけていたが、ふとそんな自分に気がつくが早いか、それがいかにも自分でも思いがけないような気がしながら「私と云うものはたったこれっきりだったのかしらん」と思わずにはいられなかった。……
 その夜も更けて、もう真夜中近くになりかかった頃、あの方が急にお気づきになったように「どちらが方塞《かたふさが》りにあたるか」と仰ゃられ出したので、数えて見ると、丁度此方が塞がっていた。「どうしようかな」と、あの方もお当惑なすったように仰ゃって、「ともかくも、一緒に何処かへ移ろうじゃないか」と私をお促しなさるけれど、私は打ち臥したぎり、まあ、こんな事ってあるものかしらと、胸のつぶれるような思いに身を任せながら、しばらくは返事も出来ないほどになっていた。それから私はようやっとの思いで口を開きながら「また他の日にいらっしゃいませ。ほんとうに方《かた》がお明けになってから入らっしゃると好かったのですのに」と諦め切ったように言った。あの方も、とうとう外にしようがなさそうに「例の面自くもない物忌《ものいみ》になったか」とぶつぶつ言われながら、真夜中近くをお帰りになって往かれた。そういうあの方の後ろ姿は、私の心なしか、いつになくお辛そうにさえ見えた。
 翌朝、すぐ御文をおよこしになった。その御文も「ゆうべは夜も更けていたのでひどくつらかったぞ。そちらはどうだったな。はやく精進明けをしなさい。大夫も大ぶ窶《やつ》れていたようだから」と、いつもに似ずお心がこもっているようだった。こうやってまでして、山から下りたばかりの私をおいたわりになろうとなすって居られるあの方のお心ばえも、そんな生憎《あいにく》な物忌のために、しばらく私からお遠のきになって入らっしゃる間に、又昔のようにつれなくおなりになられそうな事ぐらいは、私にもよく分かっていた。しかし私には、それをそのままに任せて置くよりしかたがないのだった。

   その七

 そう云うあの方の御物忌のお果てなさる日を私は空しくお待ちしているうちに、やがて七月になったが、或日の昼頃に「やがて殿がお出《いで》になる筈です、此方におれとの仰せでした」と言って、侍どもがやって来た。こちらの者も立ち騒いで、日頃から取り乱してあった所などをあわてて片付け出していた。私はそれを何かしら心苦しいような思いで見ていた。が、なかなかお見えにならないままに、日が暮れてしまったので、来ていた侍どもも「御車の装束などもすっかりなすってしまわれたのに、どうして今になってもお見えにならないのかしら」などと不思議そうに言い合っていた。そのうちにだんだん夜も更けて往くばかりだったが、とうとう侍どもが人を見せにやると、その使いの男が帰ってきて「今しがた装束をお解きになって御随身《みずいじん》たちもお引取りになりました」と告げ知らせた。
 その翌朝、道綱が「どうして入らっしゃらなかったのか伺って参りましょう」と自分から言って出かけて往った。が、すぐ戻って来、「ゆうべは御気分がお悪かったのだそうです、急にお苦しくなられたので、伺えなくなったと仰ゃっておられました」と私に言うのだった。そんなお心の見え透くような御言葉なら、いっそ何にも聞いて来なかった方がよかった位だったのに。同じ御返事にしたって、もっと私の気もちをいたわって下さるようなお言葉がお言いになれないものなのかしら。せめてもの事、「急に差し障りが出来たので往かれなくなってしまった。若《も》しか都合がついたらすぐ往こうと思っていたので、車の用意もそのままにさせて置いたのだが――」なんぞとでも言って下されば、まだしも私の気もちも好いものを。
 矢っ張自分の思ったとおり、少しはお心が変られるのかなと考えたのはあの時の私の考え過しで、あの方は相変らず以前のあの方だけだったのらしい。そうして私だけが――そう、私は少くとも、あの
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