山から帰って来てからは、もう昔のような私ではなくなりかけているのだ。……
その日もまた、私がそんな考えをとつおいつし出していたところへ、西の京にお住いになって居られるあの方の御妹から御文があった。見れば、まだ私があれからずっと山に籠《こも》っているものとばかりお思いになっていらしって、何くれと物哀れげに仰《おっし》ゃって「どうしていつまでもまあそんなお淋しいお住いをなすって入らっしゃるのでしょう。そのようなお住いをも一向苦になさらずにお訪ねいたすお方だっておありでしょうに、つれないあの人はこの頃あなた様からもお離《か》れがちだとか。本当にどうして入らっしゃるかと大へん気になって居りますので、ちょっと――」と書いておよこしになった。そこで私はつい今もいま考えていたままに「山の住いはずっと秋までいたそうと思って居りましたのに、又こうして心にもない里住いをいたすようになりました。――仮りに山に入っても、私のような意気地のない者はまことに中途半端なものでございますこと。だが私も、今度という今度ばかりは本当に苦しい思いをいたしました。しかしそのような苦しい思いも、みんなあの方が私にお与え下さるものとおもえば反っていとしくて、或時などは自分から好んでそれを求めたほどでございました。どうぞこういう言葉を私がただ奇矯《ききょう》な事を申すようにお思いなさらないで下さいまし。そういうおりおりの空《うつ》けた私にはどうかいたすと、そんな苦しみが無ければないで、反って一層はかなく、殆どわが身があるかないかになってしまいはせぬかと思われる程なのでございますから。――只、それほどまで私にとっては命の糧にも等しいほどな、その苦しみのお値打《ねうち》にも、それを私にお与え下さっている御当人は少しもお気づきになって入らっしゃいませんようなのですもの。私はそれをば此頃あの方のために何んだかお気の毒に思っております位。――本当にこんな人並ならぬ気もちさえいたして居りますほどの私の心のうちは、誰やらの申しました『深山《みやま》がくれの草』とばかり思えて、いくら繁くとも誰方もお認めなさいますまいと思って居ります」と書いて送った。
そう、本当に私はもう昔みたいにあの方のためになんぞ苦しむまいとは思わないが好いのだ。いくらあの方からお離れしようとも、もう自分がお離れできない事はよく私にも分かっている筈だろ
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