いがけないような事になるかも知れないのにと、またしても例の物思いをし出そうとしている自分に気がつくと、私はもうそんな自分をば勝手に一人で苦しませるために、さっきの呉竹がますます傾き出しているのをも、わざとそのままにさせて置いた。

 この頃あの方はずっと近江とか云う女のもとへお通い詰めだと云う事をお聞きしていた。
 そんな或日の事、あの方から珍らしく御消息があって「私の心の怠りでもあるが、いま忙しい事も忙しいのだ。夜分でもと思うけれど構わないか。何だかお前が怖いような気もするが――」などと書いておよこしになった。私は「只今気分が好くありませんので何も申し上げられません」と素っ気ない返事をやったが、そのすぐ跡からそんな返事をやった事でもって自分から絶え入るような思いをしていると、その夜、あの方はいかにも平気そうな御様子をなすってお見えになった。ほんとうに悔やしいと思って口も利かずにいると、あの方は悪びれもせずに常談ばかりお言いになっていらしった。それが私にはとても辛くて辛くて、とうとうこの日頃ずっと我慢しつづけていた事をお訴えし出していると、そのうちにあの方は何とも御返事をなさらなくなってしまった。そうしていつの間にかもう寐入《ねい》ってしまわれたようだったので、私は急に気抜けがしてそのまま黙っていると、その時ふいとあの方は薄目をお開けになって、そう云う私に「どうしたのだ。もう寐てしまったのか」と意地悪そうにお笑いかけなすった。けれども、私はもう石のように押し黙ったぎり、そのまま夜を明かしてしまったので、翌朝あの方は物もお言いにならずにお帰りになられた。
 それから二三日するかしないうちに、あの方は何事もなかったかのように、例の縫物などを持って来させて、「これを仕立ててくれ」などと言っておよこしになった。が、私はそれには手もつけずに、そっくりそのままそれを返えしてやった。

 三月も末近くなってから、父が京に上って来られたので、私はあんまりこうして暮してばかり居ても息苦しくって溜《たま》らなかったし、それに忌《いみ》も違《たが》えがてら、しばらく父の所へ往くことにした。そちらで、この間から思い立っていた長精進もはじめようかと思い、いろいろその支度をし出しているところへ、あの方から御文があった。相変らず「勘当は未だなのか。もう許してくれるなら、暮方にでも往きたいがどうだ
前へ 次へ
全33ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング