言われたのだろうと思って、それ以上尋ねるのは止めて、いろいろ慰《なだ》めたり賺《すか》したりしていたが、それから何日たっても、あの方からは音信《おとずれ》さえもなかった。「まさかと思っていたのに、本当にこのままお絶えなさる気なのかしらん」と不安そうに思いながら、それでもまだそれを半ば疑うような気もちで暮らしていると、或日の事、こないだあの方の出て往かれる時に鬢《びん》をお洗いになった※[#「さんずい+甘」、第3水準1−86−60]坏《ゆするつき》の水がそっくりそのままになっているのにふと気がついた。よく見ると、その水の上にはもう一面に塵《ちり》が溜《た》まっていた。「まあ、こんなになるまで――」と私は胸をしめつけられるような心もちで、それに何時までもじっと見入っていた。――そんな事さえも、その日頃にはとかく有りがちなのであった。
そういう一方に、あの坊《まち》の小路の女のところでは子供が生れるとか言って大騒ぎをしていたらしかったが、その頃からどう云うものか、あの方はあんまりその女のもとへはお出《いで》にならなくなったとか云う噂だった。その女の事を憎い憎いと思いつめていた時分に「いつまでも死なせずに置いて私の苦しみをそっくりそのまま味わせてやりたいものだ」と思っていた通りに、すべての事がなって往きそうだった上、その生れたばかりの子供までが突然死んだと聞いた時には、「まあ何んていい気味だろう。急にそんなになってしまわれて、どんな心もちがしているかしら。私の苦しみよりかいま少し余計に苦しんでいる事だろう」などと考えて、本当に私は胸のうちがすっぱりとした位だった。――こんな人らしくもない心の中まで此処に書きつけるのは、ちょっとためらわれもしたけれど、こう云うところに反って生き生きとした人の心の姿が現われているかとも思えるので、この私と云うものをすっかり分って貰うためには、やはりそう云うものまで何もかも私はこの日記につけて置きたいのである。
さて、そんな事のうちに数年と云うものは空しく過ぎ去ってしまったが、そう、何でも五月の二つあった或年の事である。その閏《うるう》五月には雨が殆ど絶え間もなしに降り続いていた。そうしてその月末から、どうしたのか、私は何処と云うこともなしに苦しくって溜《た》まらなかった。もうどうなったって好いと思っている自分の事ではあるし、そんな命をさ
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