ことがある?」
「いいえ、ないわ」
「そうかい、僕はその人の小説がとても好きなんだがなあ……僕はその人の短篇でね、『マダム・ルクレエス街』というのを読んだことがあるんだ……その中にね、丁度、今みたいな家が出てくるんだぜ、それは伊太利《イタリイ》の話だけれど……ところがその空家の二階の長椅子がね、一つだけ埃がちっとも溜《た》まっていなくて、何だか始終人に使われている見たいだったんだ……実はそこでね、毎晩あるお姫様がその恋人とあいびきをしていたということが後でわかるんだよ。そう云えば、今のあそこの二階もね、僕は何だかそんな秘密でもありそうな気がしてならなかったよ……やはりさっき上って見ればよかったなあ……」
「まあ……」少女はそんな突拍子もない少年の話を聴きながら顔を真っ赤にしていた。それに気がつくと、少年も顔を真っ赤にした。――そうしてしばらく気まり悪そうに二人は黙って歩いていたが、今度は少女の方が口をきいた。
「あなたは随分空想家ね」
「そうかなあ……」どうもこれは少年の口癖のように見える。
気がついて見ると、いつの間にか二人の前には五六人の、支那人の子供たちが立ちはだかっていて冷やかすように彼等を見上げているのである。二人は一層まごまごした。いつの間にこんな支那人町へなど足を踏み入れたのかしら。……
それは何処《どこ》の町にもぽかぽかと日の当っているような、何となくうっとりするような、五月の或る午後のことであった。
底本:「堀辰雄集 新潮日本文学16」新潮社
1969(昭和44)年11月12日発行
1992(平成4)年5月20日16刷
入力:横尾、近藤
校正:松永正敏
2003年12月12日作成
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