黙ったままその空家のまわりを一巡して見た。窓硝子《まどガラス》がところどころ破れている。が、その破れ目から二人がいくら脊伸びをして覗《のぞ》いて見ても、ひっそりと垂れている埃《ほこり》まみれのカアテンにさえぎられて、その中の様子はよく見えなかった。それでも台所のところなどは内部がちらりと見えた。そこなどはいろんな台所道具が雑然と散らかっていて、中には倒れたまんまのもあり、そしてそれらのものは一面にこぼれた壁土のようなもので埋もれていた。どうやら震災の時からそっくりそのままにされているらしい。この家の持主である外国人は震災の時死んでしまったかも知れない。――二人はその空家を垣の中途から最初見たときふと彼等の心に浮んだ或る考えをいつか忘れてしまったかのように、そんなことばかりしゃべり合っている。
 が、その家の裏手に、そこの庭園から丁度露台へ上るような工合にして直接にその家の二階へ通じているらしい、木蔦《きづた》のからんだ洋風の階段を見出した時に、少年よりいくぶん早熟《ませ》ているらしい少女は思い切ったように言った。
「ちょっとあれへ上って見ないこと?」
「うん……」少年は生返事をしている。
「そんなら私が先へ行くわ……」
 それでもと云いかねて、やはり少年は自分が先に立ってその木蔦のからんだ階段をすこし危なっかしそうな足つきで上って行った。が、その中途まで上ったかと思うと、少年は急に足を止めた。そこの壁の上に彼の顔を赧《あか》くするような落書の描いてあるのを発見したからである。少年はくるりと踵《きびす》を返すと、
「やっぱり悪いから止《よ》そうよ」と云いながら、ずんずん一人で先に降りてしまった。少女はそこに一人きり取り残されて、しばらく呆気《あっけ》にとられているように見えたが、やがて彼女も彼のあとを追った。
 そうしてそのまま二人は彼等の love−scene には持ってこいに見えたその空家の庭からとうとう立ち去ったのである。
 少年はその家を遠ざかるにつれ、つくづく自分に冒険心の足りないことを悲しむばかりであった。そうしてその辺の外人居留地かも知れない洋館ばかりの立ち並んだ見知らない町の中を少女と肩をならべて歩きながら、そういう弱虫の自分に対して自分自身で腹を立ててでもいるかのように、急に何時《いつ》になくおしゃべりになった。
「君、メリメエという人の小説を読んだ
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