る虚偽すなわち形相的虚偽は、ただ判断においてのみ見出され得ると述べたとはいえ、しかし観念にして何ものでもないものを或るものであるかのように表現する場合、たしかに、或る他の質料的虚偽が観念のうちに存するのである。かくて、例えば、熱と寒について私の有する観念は極めてわずかしか明晰で判明でないので、これらの観念によって、寒が単に熱の欠存であるのか、それとも熱が寒の欠存であるのか、あるいはまた両者共に実在的な性質であるのか、それとも共にそうでないのか、私はこれを見分けることができない。ところで或るものの観念であるかのように思われぬいかなる観念も存し得ないのであるから、もし実際に寒は熱の欠存以外の何ものでもないことが真であるならば、寒を実在的な、積極的に或るもののように私に表現するところの観念が、偽と言われるのは不当でないであろう。その他の場合も同様である。
これらの観念は、たしかに、或る私とは別の作者に帰せられることを要しない。なぜなら、もし実際にそれらが偽であるならば、すなわち、何ものでもないものを表現するならば、それらが無から出てくること、言い換えると、それらが私のうちにあるのは、私の本性にあるものが欠けており、これがまったく完全でないゆえにというよりほか他の原因によるのでないことは、自然的な光によって私に知られているからであり、もしまたそれらが真であるならば、それらはしかし実に何ものでもないものと区別し得られないほど極めてわずかの実在性をしか私に示さないからして、何故にそれらが私自身によって作られることができないのか、私にはわからないからである。
しかるに物体的なものの観念の中で明晰で判明であるもののうち、或るものは、すなわち実体、持続、数、その他これに類するものは、私自身の観念から引き出され得たように思われる。私が石は実体であると、すなわちそれ自身によって存在することができるものであると思惟し、他方また私は実体であると思惟する場合、もちろん私は、私が思惟するもので延長を有するものでなく、これに反して石は延長を有するもので思惟するものでないこと、従って両《ふた》つの概念の間には非常に大きな差異があることを理解するにしても、しかし実体という点においては両者は一致すると思われる。同じようにまた私が、私はいま有ることを知覚し、さらに以前にまた或る時のあいだ有ったことを想起する場合、なおまた私がその数を理解している種々の思想を有する場合、私は持続と数との観念を得、しかる後これをどのような他のものへも移すことができる。物体的なものの観念を構成するその他のすべてのもの、すなわち延長、形体、位置及び運動は、もちろん、私は思惟するもの以外の何ものでもないのであるからして、私のうちに形相的には含まれないが、しかし、それらは単に実体の或る様態であり、私はしかるに実体であるから、優越的には私のうちに含まれ得ると思われる。
かようにして残るところはただ神の観念のみである。この観念のうちには何か私自身から出てくることのできなかったものがあるかどうかを考察しなければならぬ。神という名称のもとに私が理解するのは、或る無限なる、独立なる、全智なる、全能なる、そして一方、私自身を、また他方、もしさらに何ものかが存在するならば、存在するほどのものの一切を、創造したところの、実体である。まことにこのすべての性質は、私がこれに注意することの深ければ深いだけ、いよいよ、単に私自身から出てきたものであり得ると思われないのである。それゆえに、前述のことから、神は必然的に存在する、と結論しなければならない。
なぜかというに、私は実体であるということそのことから、たしかに実体の観念が私のうちにあるとはいえ、だからといってそれは、私は有限であるからして、実際に無限であるところの或る実体から出てきたのでなければ、無限なる実体の観念ではなかったであろうから。
また、私は無限なるものを真なる観念によって知覚するのではなく、かえって、あたかも静止や闇を運動や光の否定によって知覚するごとく、単に有限なるものの否定によって知覚する、と思ってはならない。なぜなら反対に、無限なる実体のうちには有限なる実体のうちにおけるよりも多くの実在性があること、また従って無限なるものの知覚は有限なるものの知覚よりも、言い換えると、神の知覚は私自身の知覚よりも、いわばいっそう先なるものとして私のうちにあることを、私は明瞭に理解するからである。というのは、もし私のうちに、それとの比較によって私が私の欠陥を認めるところの何らかいっそう完全なる実有の観念が存しなかったならば、いかにして私は、私を疑うこと、私が欲求すること、言い換えると、或るものが私に欠けていて、私はまったく完全ではないこと、を理解したであろうか。
また、おそらくこの神の観念は、熱や寒の観念、およびこれに類するものの観念について少し前に私が気づいたのと同じく、質料的に偽であり、従ってまた無から出てくることができる、と言うことはできない。なぜなら、反対に、この観念は極めて明瞭で判明であり、そして他のいかなる観念よりも多くの客観的実在性を含んでいるからして、この観念よりも多くそれ自身によって真なるもの、偽でないかとの疑いを容れることがいっそう少ないもの、は存しないからである。私は言う、この最も完全にして無限なる実有の観念はこの上なく真であるのである、と。というのは、たといおそらくかくのごとき実有は存在しないと仮想することができるにしても、この実有の観念が、先に寒の観念について言ったごとく、何ら実在的なものを私に示さないと仮想することはできないから。この観念はまたこの上なく明晰で判明であるのである。なぜなら、何であれ私が実在的にして真なるものとして、また何らかの完全性をもたらすものとして明晰に判明に知覚するものは、全部この観念のうちに含まれているから。またこの場合、私が無限なるものを把握しないということ、あるいは神のうちには私の把握することのできぬ、またおそらく思惟によっては何らか触れることさえできぬ、他の無数のものが存するといことは、妨げとはならない。というのは、有限であるところの私によって把握せられないということは、無限なるものの本質に属するものであるから。そして私がまさにこのことを理解することで、そして私の明晰に知覚し、何らかの完全性をもたらすものとして知る一切のものが、なおおそらくまた私の知らない他の無数のものが、形相的にか優越的にか神のうちに存すると判断することで、私が神について有する観念が私のうちにあるすべての観念のうち最も真で、また最も明晰で判明であるためには、十分なのである。
しかしおそらく私は自分で理解しているより以上の或るものであるかもしれない、しかして私が神に帰するところの一切の完全性は、たとい私においては未だ自己を顕現せず、また現実性にもたらされないにしても、何らか可能的には私のうちにあるかもしれない。というのは、私は実際に私の知識が漸次に増大せられることを経験し、そしてそれがかようにして無限にまでますます増大せられないように何が妨げるのか、また何故に、この知識がかように増大せられたとき、これによって私が神の余のすべての完全性に達することができないのか、また最後に、何故に、かかる完全性に至る力が、もし実際に私のうちにあるならば、かかる完全性の観念を作り出すに十分でないのか、私は理解しないから。
否、かかることは何らあり得ない。すなわちまず第一に、私の知識が一歩一歩増大せられるということ、また未だ現実的にはないところの多くのものが可能的に私のうちにあるということは真であるにしても、かくのごとくことは何ら神の観念に適しない。神の観念のうちには疑いもなく単に可能的であるものは何もない。またこの一歩一歩増大せられるということはまさに不完全性の極めて確実な証明なのである。次に、たとい私の知識は常にますます増大せられるとはいえ、しかも私は、それが、だからといって、決して現実的に無限なものにならないであろうということを理解する、なぜなら私の知識はこれ以上の増大を容れないというところには決して達しないであろうから。しかるに神は、その完全性には何ものも加えられ得ないというように、現実的に無限である、と私は判断するのである。そして最後に、観念の客観的有は、本来からいえば無であるところの単に可能的な有によってではなく、かえってただ現実的な有、すなわち形相的な有によってのみ生ぜしめられ得る、ということを、私は知覚するのである。
まことにこのすべてのことには、注意深く考察するとき自然的な光によって明瞭でないものは何もないのである。しかしながら私がそんなに注意しないで、感覚的なものの像が精神の眼を盲にする場合、何故に私よりもいっそう完全な実有の観念は必然的に、或る実際にいっそう完全なる実有から出てこなければならないかを、私は容易に想起しないからして、さらに進んで、かかる観念を有するところの私自身は、もしかかる実有が何ら存在しなかったならば、存することができたかどうか、を探究したいと思う。
いったい私は何者から出てきたのであろうか。もちろん私は私自身から、それとも両親から、それとも何か他の、神よりも少く完全なものから。というのは、神よりもいっそう完全なものは、神と同じ程度に完全なものでさえ、何も思惟せられることも想像せられることもできないのであるから。
けれども、もし私が私自身から出てきたとすれば、私は疑うということがなかったであろうし、また願望するということがなかったであろうし、またおよそ何物かが私に欠けているということがなかったであろう。なぜなら、その何らかの観念が私のうちにある一切の完全性を、私は私自身に与えたであろうし、かようにして私自身は神であったであろうから。また私に欠けているものはたぶん、すでに私のうちにあるものよりも、得られるにいっそう困難であるかもしれないと考えてはならぬ。なぜなら、反対に、私、言い換えると思惟するもの、すなわち思惟する実体を無から生み出すことは、単にこの実体の偶有性であるところの、私の知らないところの多くのものの知識を得ることよりも、遥かにいっそう困難であったということは明瞭であるから。そして確かに、もし私がかのいっそう大きなもの、すなわち思惟する実体を生み出すという完全性を自分によって持ったとすれば、私は少くともかのいっそう容易に持たれ得るもの、すなわちこの実体の偶有性であるところの多くのものの知識を自分に拒まなかったであろう。のみならず私は神の観念のうちに含まれると私の知覚するものの他のいかなるものをも自分に拒まなかったであろう。なぜなら、たしかに、そのいかなるものも作り出されるにいっそう困難ではないと私には思われるから。そしてもし何らかのものが作り出されるにいっそう困難であったとすれば、実に私が持つあらゆる他のものは自分によって持ったのであるからして、私はかかるものにおいて私の力が制限せられるのを経験したであろうゆえに、確かにかかるものはまた私にいっそう困難と思われたであろう。
なおまた、おそらく私はいま存するごとくつねに存したと仮定するにしても、あたかもこの仮定から私の存在のいかなる作者も追求せらるべきではないということが帰結したかのように称して、これらの論拠の力を逃れることは私にはできない。なぜなら、私の生涯の全時間は、そのいずれの箇々の部分も余の部分にまったく依繋しないところの無数の部分に分かたれ得るゆえに、私が少し前に存したということから私がいま存しなくてはならぬということは、この瞬間に或る原因がいわばもう一度私を創造する、言い換えると私を保存する、のでない限りは、帰結しないからである。すなわち、時間の本性に注意する者にとっては、何らかのものがその持続する箇々の瞬間において保存せられるためには、そのものが未だ存在しなかったとした場合、それを新たに創造するために必要であったの
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