似していると思量するに至らしめるのであるかを、探究しなければならぬ。もちろん私は自然によってかように教えられたと思われるのである。なおその上に、私はそれらの観念が私の意志に、従ってまた私自身に依繋しないことを経験する。というのは、それらはしばしば私の意志に反してさえ現われるからである。例えばいま私は、私が欲すると欲しないとにかかわらず、熱を感じる、そしてそのために私は、この感覚、すなわち熱の観念が、私とは別のものから、言うまでもなく私がそのそばに坐っている火の熱から、私にやってくると考える。そしてかかるものが他の何物でもなくむしろ自己のかたどりを私のうちへ送り込むと私が判断するということよりももっともなことはないのである。
 いま、これらの根拠が十分に確固たるものであるかどうかを検べてみよう。私がここで、私は自然によってかように教えられた、と言う場合、それはただ或るおのずからなる傾動によって私がこれを信じるようにせられたということを意味するのであって、或る自然的な光によって真であると私に明示せられたということを意味するのではない。この二つのことははなはだ異なっている。すなわち、自然的な光によって私に明示せられるあらゆることは、例えば、私が疑うということから私は有るということが帰結すること、その他これに類することは、決して疑わしいものであることができない。なぜなら、この光と同等に私の信頼し得るような、またこの光によって私に明示せられることを真でないと私に教え得るような、いかなる他の能力も有り得ないからである。しかるに自然的傾動についていえば、私は以前にすでにしばしば、善を選ぶことが問題であった場合に、私がこの傾動によりいっそう悪い側に動かされた、と判断したのであって、何故に私はかかる傾動に或る他のことにおいていっそう多く信頼すべきかを理解しないのである。
 次に、たといそれらの観念が私の意志に依繋しないにしても、だからといってそれらが必然的に私の外に横たわるものから出てくるということは確かではない。なぜなら、私がたったいま述べた、かの傾動は、私のうちにあるとはいえ、私の意志とは別のものであると思われるが、同じようにおそらくまた、それらの観念の生産者として、何か他の、未だ私に十分に認識せられていない能力が私のうちにあるかもしれないからである。あたかもこれまでつねに私には、私の眠っているときに、かかる観念がいかなる外物の助けも借りないで私のうちに作られるのが見られたごとくに。
 そして最後に、たとい私とは別のものから出てきたにしても、このことからそれらの観念がかかるものに類似していなくてはならぬということは帰結しない。反対に、多くの場合において私は両者の間にしばしば大きな差異を見出したように思われる。すなわち、例えば、私は太陽について二つの相異なる観念を私のうちに発見する。その一つはいわば感覚から汲み取ったもので、これはとりわけかの外来のものと私の見做すところの観念のうちに数えらるべきものであるが、これによると私には太陽は極めて小さいものに見える。他の一つはしかるに星学上の根拠から取ってこられたもので、言い換えると或る私に生具の概念から引き出されたもの、それとも何か他の仕方で私によって作られたものであるが、これによると太陽は地球より何倍も大きいものとして示される。そして実際、これら二つの観念の双方が私の外に存在する同一の太陽に類似しているということは不可能である。そして理性は、最も直接に太陽そのものから出てきたと思われるところの観念が太陽に最も多く類似していない、と私を説得するのである。
 このすべてのことは、これまで私が、感覚器官を介して、あるいは何らか他の仕方で、観念すなわち自己の像を私に送り込むところの、私とは別の或るものが存在すると信じたのは、確実な判断によるのではなく、かえってただ或る盲目の衝動によるのであるということを、十分に証明するのである。
 しかしながら、私のうちにその観念があるもののうちで、そのうちの或るものが私の外に存在するかどうかを探究するために、或る他の道が私に与えられている。疑いもなく、これらの観念がただ単に思惟の或る一定の仕方である限りにおいては、私はこれらの観念の間に何らの不等をも認めず、そのすべては同じ仕方で私から出てくると思われる。しかるにその一つは一つのものを、他は他のものを表現する限りにおいては、これらの観念が相互にはなはだ異なっていることは明瞭である。というのは、疑いもなく、実体を私に示すところの観念は、ただ単に様態すなわち偶有性を表現するところの観念よりも、いっそう大きな或るものであり、しかして、いわば、いっそう多くの客観的実在性を己れのうちに含んでおり、さらにまた私がそれによって或る至高にして、永遠なる、無限なる、全智なる、全能なる、そして自己のほかなる一切のものの創造者たる、神を理解するところの観念は、有限なる実体を私に示すところの観念よりも、確かにいっそう多くの客観的実在性を己れのうちに有しているからである。
 ところでいま、動力的かつ全体的な原因のうちには少くともこの原因の結果のうちにあると同じだけの実在性が存しなくてはならぬということは、自然的な光によって明瞭である。なぜなら、結果は、原因からでなければ、いったいどこから、自己の実在性を得ることができるのであろうか。また、いかにして原因は、自分でも実在性を有するのでなければこの実在性を結果に与えることができるのであろうか。そしてここから、いかなるものも無から生じ得ないということ、なおまた、より多く完全なものは、言い換えると自己のうちにより多くの実在性を含むものは、より少く完全なものから生じ得ないということ、が帰結する。しかもこれは、単に、その実在性が現実的すなわち形相的であるところの結果について明白に真であるのみでなく、また、そのうちにおいてはただ客観的実在性が考察せられるところの観念についてもまた真である。くわしく言うと、例えば、以前に存しなかった或る石は、その石のうちに含まれるものの全体を、あるいは形相的に、あるいは優越的に、自己のうちに有するところの或るものによって生産せられるのでなければ、いま存し始めることができないし、また熱は、熱と少くとも等しい程度の完全性を有するものによってでなければ、以前に熱せられなかった対象のうちに生ぜしめられることができないし、その他の場合もかくのごとくであるが、単にこれらのみではなく、さらにまた、熱の、あるいは石の観念は、熱あるいは石のうちにあると私が考えるのと少くとも同じだけの実在性を自己のうちに含む或る原因によって私のうちに置かれたのでなければ、私のうちにあることができないのである。というのは、たといこの原因は自己の現実的すなわち形相的実在性の何物も私の観念のうちに移し入れないとはいえ、だからといってこの原因はより少く実在的でなくてはならぬと考うべきではなく、むしろ、観念そのものは私の思惟の仕方であるからして、その本性は、私の思惟から借りてこられる実在性のほか、何ら他の形相的実在性を自分からは要求しない性質のものであると考うべきであるからである。しかるに或る観念が、他の客観的実在性ではなくて或る特定の客観的実在性を含むということは、たしかに、この観念が客観的実在性について含むのと少くとも同じだけの形相的実在性を自己のうちに有するところの或る原因によって、これを得てくるのでなくてはならぬ。なぜなら、もし我々がその原因のうちに存しなかった或るものが観念のうちに見出されると看做すならば、この観念は従ってこれを無から得てくることになり、しかるに、ものがそれによって観念を介して悟性のうちに客観的に有るところのこの存在の仕方は、たとい不完全であるとしても、たしかにまったく無ではなく、また従ってこの観念が無から出てくるということはあり得ないからである。
 なおまた、私が私の有する観念のうちにおいて考察するところの実在性は単に客観的なものであるからして、この実在性がこの観念の原因のうちに形相的に有ることは必要でなく、かえってこの原因のうちにおいても客観的に有れば十分であろう、と忖度《そんたく》してはならない。というのは、この客観的な存在の仕方が観念に、観念そのものの本性上、合致すると同じように、形相的な存在の仕方が観念の原因に、――少くともその第一にして主要なる原因には――この原因の本性上、合致するからである。そしてたといおそらく一の観念は他の観念から生まれることができるにしても、これはしかしこのようにして無限に溯ることができないのであって、遂にはいわば或る第一の観念に達しなくてはならず、しかしてこの観念の原因は、観念のうちにおいてはただ客観的に有る一切の実在性を形相的に自己のうちに含むところの、原型ともいうべきものなのである。かようにして観念は私のうちにおいてあたかも或る影像のごときものであって、これは、たしかに、これを得てきたもとのものの完全性に及ばぬことは容易にあり得るが、或るより大きなものまたはより完全なものを含み得ないことは、自然的な光によって私に明瞭である。
 そしてこのすべてのことは、これを考量することが長ければ長いだけ、注意深ければ注意深いだけ、いよいよ明晰に、いよいよ判明に、その真であることを私は認識するのである。しかし私は何を結局これから結論しようとするのであるか。言うまでもなく、もし私の有する観念のうちの或るものの客観的実在性にして、それが形相的にも優越的にも私のうちに存せず、また従って私自身がこの観念の原因であり得ぬことが私に確実であるほど、大きいものであるならば、そこから必然的に、私のみが独り世界にあるのではなく、かかる観念の原因であるところの或る他のものがまた存在するということが帰結するということである。他方もし何らかくのごとき観念が私のうちに見出されないならば、私とは別の或るものの存在を私に確実ならしめるところのいかなる論拠もまったく私は有しないであろう。というのは、私は一切を極めて注意深く調査して、これまで何らの論拠も見出し得なかったからである。
 ところで私の有する観念には、ここに何ら困難のあり得ないところの、かの私自身を私に示す観念のほか、他に、神を表現するもの、また物体的な無生的なものを表現するもの、また天使を表現するもの、また動物を表現するもの、そして最後に私と同類の他の人間を表現するものがある。
 そして他の人間を、あるいは動物を、あるいは天使を示すところの観念についていえば、たとい私のほか何らの人間も、何らの動物も、何らの天使も世界に存しないにしても、これらの観念が、私自身について、物体的なものについて、また神について私の有する観念から構成せられ得るということを、私は容易に理解するのである。
 そして物体的なものの観念についていえば、これらのうちには私自身によって生まれ得たとは思われないほど実在性の大きいものは何も見られない。もし私がこれらをいっそう深く観察するならば、また昨日私が蜜蝋の観念を吟味したのと同じ仕方で、その一つ一つを吟味するならば、これらにおいて私が明晰に判明に知覚するものはただ極めてわずかであることに気づくのである。言うまでもなく、それは、大きさ、すなわち長さ、広さ及び深さにおける延長、かかる延長の限定によって生ずる形体、種々の形体を具えたものの相互に占める位置、及び運動、すなわちかかる位置の変化であって、これになお実体、持続及び数を加えることができる。しかるにその他のもの、例えば光と色、音、香、味、熱と寒、また他の触覚的性質は、ただ極めて不分明に不明瞭にのみ私によって思惟せられるのであり、従って私は、それらが真であるのか、それとも偽であるのか、言い換えると、それらについて私の有する観念が或るものの観念であるのか、それとも何ものでもないものの観念であるのか、をさえ知らないのである。というのは、たとい私は少し前に、本来の意味におけ
前へ 次へ
全18ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
デカルト ルネ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング