他には何もないので、私にはこれがさらにいっそう完全な、すなわちいっそう大きなものであり得るとは理解せられ得ないということである。というのは、例えば、もし私が理解の能力を考察するとすれば、私は直ちにそれが私のうちにおいてはなはだ小さくて、非常に有限なものであることを知り、そして同時に私は或る他の遥かにいっそう大きな、いな最も大きな、無限な能力の観念を作り、そして私がかかる能力の観念を作り得ることそのことから、私はかかる能力が神の本性に属することを知覚するからである。同じように、もし私が想起の能力あるいは想像の能力、あるいは何か他の能力を考査するとしても、決して私は、それが私のうちにおいて弱くて局限せられていて、神においては広大であることを私の理解しないものは何も発見しないのである。ただ意志すなわち意志の自由のみは、私はこれを私のうちにおいて何らいっそう大きなものの観念を捉え得ないほど大きなものとして経験するのであり、かくて私がいわば神の或る姿と像りを担うことを理解せしめる根拠は、主としてこの意志である。なぜならこの意志は神においては私のうちにおいてよりも、一方この意志に結びつけられていて、これをいっそう強固にし、いっそう有効にするところの、認識と力との点において、他方この意志がいっそう多くのものに拡げられるところから、その対象の点において、比較にならぬほどいっそう大きいとはいえ、しかしそれ自身において形相的にかつ厳密に観られるならば、いっそう大きいとは思われないから。意志というものはただ、我々が或る一つのことを為すもしくは為さぬ(言い換えると肯定するもしくは否定する、追求するもしくは忌避する)ことができるというところに存するからである、あるいはむしろそれはただ、悟性によって我々に呈示せられているものを我々が肯定しもしくは否定し、すなわち追求しもしくは忌避するにあたって、いかなる外的な力によってもそうするように決定せられてはいないと感じて、そうするように動かされるというところに存するからである。というのは、私が自由であるためには、私が一方の側にも他方の側にも動かされることができるということは必要でなく、かえって反対に、私が真と善との根拠をその側において明証的に理解するゆえにせよ、あるいは神が私の思惟の内部をそうするように処置するゆえにせよ、私の一方の側に傾くことが多けれ
前へ
次へ
全86ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
デカルト ルネ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング