或るものは意志あるいは感情と名づけられ、他のものは判断と名づけられる。
いま観念についていえば、それが単にそれ自身において観られ、それを何か他のものに関係させなければ、それは、本来、偽であり得ない。なぜなら、私が山羊を想像しようとキマイラを想像しようと、私がその一を想像するということは他を想像するということに劣らず真であるからである。また意志そのもの、あるいは感情においても、何ら虚偽を恐れることを要しない。なぜなら、たとい私は曲ったこと、あるいはどこにも有しないものをさえ願望するかもしれないとはいえ、それだからといって私がこれを願望するということは真でなくはないからである。かようにして残るのはただ判断のみであり、これにおいて私は誤らないように用心しなければならぬ。しかるに判断において見出され得る主要な、そして極めて普通の誤謬は、私のうちにある観念が私の外に横たわる或るものに類似している、あるいは一致している、と私が判断するということに存する。なぜなら、実際、もし私が単に観念そのものを私の思惟の或る一定の仕方として考察し、何か他のものに関係させなかったならば、それはほとんど私に何らの誤謬の材料を与え得なかったからである。
ところでこれらの観念のうち或るものは生具のもの、また或るものは外来のもの、さらに或るものは私自身によって作られたもの、と私には思われる。すなわち、私が、ものとは何であるか、真理とは何であるか、思惟とは何であるか、を理解するということは、この理解を私は他のどこからでもなく私の本性そのものから汲み取ると思われる。しかるにいま私が噪音を聞く、太陽を見る、熱を感じるということは、この感覚を私はこれまで、或る私の外に横たわるものから出てくる、と判断した。そして最後にセイレネス、ヒポグリプス、その他これに類するものは、私自身によって構像せられたものである。もっとも、おそらくまた私は、すべての観念は外来のものであるとも、あるいはすべての観念は生具のものであるとも、あるいはすべての観念は作られたものであるとも、考えることができる。というのは、私は未だその真の起源を明晰に洞見したのではないから。
しかしここでは主として、いわば私の外に存在するものから取ってこられたものと私の見做すところの観念について、いったいどのような根拠が私をしてそれらの観念をばかかるものに類
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