先入の意見が私に浮んでくるたびごとに、もし神が欲しさえすれば、私が精神の眼で極めて明証的に直観すると考えることにおいてすら、私が間違うようにすることは神にとって容易である、と告白せざるを得ないのである。とはいえ私は、私が極めて明晰に知覚すると信じるものそのものに私を向けるたびごとに、私はそれによってまったく説得せられ、かくておのずと次の言葉を発する、できる者は誰でも私を欺くが宜い、しかし、私が私は或るものであると思惟するであろう間は、彼は私が無であるようにすることは決してできないであろう、あるいは、私は有るということが現在真であるからには、私がかつて有らなかったということがいつか真であるようにすることは決してできないであろう、あるいはおそらくまた、二と三とを加えると五よりも大きいないし小さいとか、あるいはこれに類すること、すなわちたしかにそのうちに明白な矛盾を私の認めること、が生ずるようにすることはできないであろう、と。そして確かに私は何らかの神が欺瞞者であると見做すべきいかなる機会も有しないのであり、また実に何らかの神が存するかどうかを未だ十分に知らないのであるからして、単にこのような意見に依繋する疑いの理由は極めて薄弱であり、そしていわば形而上学的である。しかしかかる理由もまた除き去られるように、機会が生ずるや否や直ちに、神は存するかどうか、そして、もし存するならば、欺瞞者であり得るかどうか、を検討しなければならぬ。というのは、このことが知られていないと、まったく他の何事も決して私に確実であり得ると思われないからである。
 しかるにいま、省察の順序は、まず私の一切の思惟を一定の類に分ち、そしてこの類のうちいったい何れに真理または虚偽は、本来、存するかを探究することを要求すると思われる。私の思惟のうちの或るものはいわばものの像であって、これにのみ、本来、観念という名称は適当するのである。例えば私が人間とか、キマイラとか、天とか、天使とか、神とかを思惟する場合がこれである。しかし他のものは、そのほかに、或る他の形相を有している。例えば私が欲する場合、恐れる場合、肯定する場合、否定する場合がこれであって、この場合私はつねにもちろん或るものを私の思惟の対象として把捉するが、しかし私の思惟はかかる、もののかたどり以上にさらに或るものを含んでいる。そしてこのようなもののうち
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